665号室の立春イブ



 小道具大道具、衣装にカツラに台本の残骸。カオスな第三演劇部の根城は決して嫌いじゃないけど、空気が埃っぽいのはいただけない。立て付けの悪い扉で中の喧噪を遮断してから、小さく深呼吸する。
 そして、その混沌の中から許可を得て持ち帰ったものが、通学鞄のかすかな膨らみに化けている。
「これ、誰が使うのかなあ」


 それから数日後のこと。
 太陽が告げる別れの挨拶が、窓から細く薄くフローリングに描かれる。冬至を過ぎること一ヶ月あまり。寒さが緩むのはまだまだ先だけど、少しずつ日が長くなってきたのは実感できる。
「遅いですわね」
「そうだね」
「千鶴さん。約束を破ったおバカさんは放っておいて、さっさと始めてしまいませんか?」
「まあまあ。急な用事が出来たのかもしれないし、もう少し待ってみましょう?」
 台所の片づけを先にはじめたちづ姉が、首だけ振り向いて応える。いいんちょも本気で言ったわけじゃないみたいで、
「千鶴さんはあの子に甘すぎます」
ひとしきり文句を吐き出してしまうと、それ以上食い下がることはなかった。

「うわ、本格的やな」
 そして、こんなやりとりの直後に帰ってくるあたりが、いいんちょとの相性の悪さを象徴しているんじゃないかな。
 ドア越しの声が何に向けられたものかは、聞かなくても分かる。中学生の女子寮にはかなり不似合いなものが玄関脇に掲げられているからだ。
 イワシの頭はともかく、柊の枝ってどこから調達したんだろう?
「すげー」
 鞄を放り出すことも忘れて次に驚くものは、リビングのテーブルにある恵方巻。かんぴょう、キュウリ、シイタケその他が入ったそれは、とても四人用とは思えない量が用意されていた。
 彼の気持ちを読むのは簡単。私も同じだったから。
「小太郎くん、帰りのあいさつは?」
 エプロンの裾で冷水が赤く染めた指先を拭いながら、ちづ姉がこちらに顔を出す。これでようやく。
「そやった。ただいま、千鶴姉ちゃんに夏美姉ちゃん」
「あなた、わざとやってますわね」
「あれおったんか、あやか姉ちゃん」
「ええ居ましたわよ。誰かさんと違って、千鶴さんとの約束は守りますもの」
「え、時間過ぎとるか」
「時計の読み方は一年生で習うでしょう」
 いいんちょが指さす掛け時計が示している時刻は、六時四十五分。ちづ姉が今日のイベントの話をした朝食のとき、みんなが帰ると約束したのは六時三十分だった。
「あー、ほんまや……。ちょっと遊びすぎたな。悪かった。すまん」
 ふざけ半分だった声を変えて、ぺこりと効果音が鳴りそうな勢いで頭を下げる。
「いいのよ、そんなに気にしなくても。今日はおめでたい日ですもの」
「まあ、準備をなさった千鶴さんが気にしていないなら、私はかまいませんわ」
「ならさっさと食おうぜ。うまそうや」
「あなたはもう少し気にしなさい!」
 どうでも良いけど、節分って『おめでたい日』なのかなあ。


「今年の恵方は東北東らしいわ」
「そんなんどーでもええって」
「だめよ。ちゃんと部室から持って来たんだから」
 錆で赤茶けたコンパスを取り出し、掌に乗せて眺める。
「そこまで真面目にする奴おらんで」
 呆れ気味な顔で恵方巻に手を伸ばす小太郎くん。私といいんちょが慌ててとめる。
「せっかくちづ姉が作ってくれたんだから、ちゃんとやろうよ」
「分かっとるて。冗談や冗談」
「まったくもう……つまみ食いだなんてお行儀の悪い。少しはネギ先生の礼儀正しさを見習ったらいかがですか」
「やっぱり食ったろ」
「駄目だってー! いいんちょも余計なこと言わないでよー」
「何が余計なことですかっ!」
 小太郎くんの右手が恵方巻を掴む。
 私の両手が小太郎くんの右手を押しとどめる。
 いいんちょの両手が私の肩を揺さぶる。
「分かったわ。東北東はこっちよ」
 針が静止するのを待っていたちづ姉は、目の前の複雑な組体操にも動じない。いつものことだけど。
 そしてまた、みんな言うことを聞くんだこれが。




「そういや、豆まきはせーへんのか」
 一人で半分以上の太巻きを平らげた小太郎くんが、両手を後ろにつき、満たされたお腹で息をしながら聞く。こういうとき、ちょっとだけ彼がうらやましい。この部屋でただ一人、ダイエットの心配が要らないんだから。
「もちろんやるわよ」
 立ち上がったちづ姉が台所の蔭から持ってきたのは……白木で出来た升三つ。大豆が山盛りになっているそれを、お盆に乗せて運んできた。
「ちょっと準備してくるわね」
 そう言い残し、ちづ姉は寝室に向かう。背中で結んだエプロンの紐を、馴れた手つきで外しながら。
「鬼の役は誰がやるん?」
「聞いてませんけど……自分が準備すると言ったのですから、千鶴さんではなくて?」
「豆はここにあるしね。他に豆まきの準備っていったら、それくらいしかないかな」
「はは、ぴったりぴったり。適任……」
 突然響く甲高い衝突音。言いかけた小太郎くんの頭が、突然後ろへ30度傾く。
「どうしたの」
「な、なんやなんや……」
 見ると、額の中央が赤くなっている。そこを掌で抑えながら、周りをみやる小太郎くん。その良く動く瞳は、テーブルの脇に転がるものを見つけ出した。
「豆……」
「ちづ姉に聞こえたんじゃない? それで投げてきたとか」
 敵襲に備えるため、声を低くしてそう呟く。誤爆されてはたまらない。
「ですがあの扉、ずっとあのままでしたわよ」
 寝室への扉は、いいんちょの正面にあった。その視線を小太郎くんと二人で追う。
 私たちから約三メートルほど前に、わずか数センチの隙間を見せる扉があった。とても狙いをつけて投げられるような場所には見えないから、否定の言葉を伝えようとしたとき。
「ちょ、跳弾……」
「へ?」
「たつみー姉ちゃんの得意技や。壁に弾をぶつけて思い通りの軌跡を描く狙撃。あの扉にぶつけて角度を変えれば、部屋の中からここに投げられる……」
「えー、ちづ姉にそんなこと出来るわけないじゃない」
 笑い飛ばそうとしたのに、被害者本人が乗ってくれない。
「千鶴姉ちゃん、武術やってなかったか?」
「聞いたことはありませんわ」
「底知れん人や……」
 三人は無言で寝室に目をやる。考えることはおんなじ。
 『ちづ姉なら出来るのかも』。
 ちょっとだけ冷や汗が出た。




 しばらく経って再びリビングに現れたちづ姉は、こちらの予想をはるかに上回る『鬼』になっていた。
 材料を持ち帰った私は、エプロンとかスカートとか、もっと布地の多いものを作るんだと思っていたけど。
 演劇部の不良在庫たる虎柄生地で作った上下のビキニに、厚紙を丸めて作ったツノ二本。まだ分からない方に、ちづ姉からの最終ヒント。
「鬼の登場だっちゃー」

「何ですかその破廉恥な格好は」
 知識がなければ北半球と南半球を間違えたとしか思えないちづ姉に、いいんちょが普通にお説教。一人だけ元ネタが分かってない。懐かしアニメがどうのこうのという番組、雪広家のお屋敷では見ることもないんだろうなあ。
「ま、まさかリアルタイムで見てた訳じゃ……」
「私たちが生まれる前に終わってた……と思うけど」
「あなたたち、何を言ってますの?」
「どうして他の女の子とばっかり話してるんだっちゃ」
 小太郎くんににじり寄るちづ姉。ああ、キャラまで付けてノリノリだ。ほんとは小太郎くんの再失言に怒ってるくせに。
 ……そもそも本物は、そういう底冷えのするような笑顔はしないと思います。
「ダーリンの浮気者ー!」
「ぎゃあああああ」
 こっちのあたる君もノリが良いなあと思ったら、なんだか様子がおかしい。小太郎くんは、小刻みに震えながら崩れ落ちた。
 演技にしては妙にリアル。でも、ちづ姉は何もしてないよね。手を握ってるだけなのに、なんで?
「な、何したのちづ姉?」
「もちろん電撃よ」
 これまたキャラに合わない含み笑いとともに、右の掌を開く。ボールペンサイズの小さいものだけど、
「それ、ひょっとしてスタンガン!?」
「出力は最小にしたのよ。ちょっとしびれるだけだって、説明書に書いてあったわ」
「ならだいじょうぶ……?」
「でも、アルカリ電池を切らしてて、オキシライド電池入れちゃったのよね」
「小太郎くーん! しっかりー!」
 とりあえず私はボックスティッシュに手を伸ばした。人間もアワを吹くんだなあ、と変なところに感心しながら。

「ダーリンとか電撃とか、何のことですかっ?」
 俗世の知識から置いてきぼりにされた御令嬢の大きな声が部屋に響いても、虎柄ビキニのお方は笑って受け流しているだけ。

 ……本物は、そういう大人の対応はしないと思います。








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