髪結い |
声のないざわめきを伴って、二人は一年椿組に入ってきた。 乃梨子さんと違って薔薇の館の住人になったばかりの瞳子さんは、ただでさえ学園内の時の人ではあった。けれど、今朝の彼女に集まる視線は、もっと単純な好奇の目。 一年近くを過ごしたクラスメイトでも、演劇部の舞台以外で松平瞳子マイナス縦ロールの姿を見るのは滅多にないことだから。 「ごきげんよう」 「…ごきげんよう、乃梨子さん……瞳子さん」 乃梨子さんは私の机の隣を通り抜けてそのまま自分の席へ向かったけど、瞳子さんは私の挨拶の前に出来たわずかな間を見逃さなかった。大きな瞳を目一杯つり上げて、身についた腹式呼吸を有効活用。 「私の髪がそんなに珍しいかしら?」 「まだ何も言ってないわ」 「見れば分かります」 必要以上に大きな声で喋る彼女は、きっと私だけでなくクラスメイト全員に皮肉を伝えているのだろう。彼女に集まる視線が少しずつ減っていくのが感じられた。 視界の端に捉えた乃梨子さんは、苦笑を浮かべて瞳子さんを一度見やっただけで、そのまま鞄の中身を机に仕舞いはじめた。相変わらず、過保護すぎない理想的お母さんだ。 「悪気はなかったんだけど。気を悪くしたなら謝ります」 行きがかり上こちらも少し大きな声で告げ、本職の役者には敵わないながらも芝居っ気たっぷりに頭を下げる。わざわざ代弁者になるほど、クラスメイト達への義理もないんだけど。 「大して気にしていませんわ」 その一言で、私の口を借りた瞳子さんとクラスメイトの会話は終わったらしい。口寄せ役を降りた私に背を向けようとするから、彼女の袖をつまんでそれを止める。 イタコだって、そろそろ自分の言葉で喋りたい。 「こだわり、なくなったんだ」 先ほどから二段階ほど音量レベルを落としてささやく。 「……何のこと」 口にしてから、自分でもわざとらしいと気づいてしまったらしく、 「劇に出るというだけのことよ。すぐに下ろしてしまうんだから、少しくらい手を抜いたって良いじゃない」 注目の的となった髪を揺らせながら、勝手に先を続ける。 「プールの日でもしっかりセットしていたのに?」 「……」 「体育祭でもしっかりセットしていたのに?」 「……」 「学園祭でもしっかりセットしていたのに?」 「何が言いたいの?」 微かに膨れた瞳子さん。少し苛めすぎたかも。 「さっき言ったでしょ。こだわりが無くなったんだなあって、そう思っただけ」 これまでにも舞台に立つ日やそれが邪魔になる日はあったのに、髪を下ろして登校してきたのは今日が初めてだ。 瞳子さんは、自分のヘアスタイルにずいぶん執着していた。偏執的なまでに、と言い添えても構わない。その原因は知らないけれど、このクラスで初めて出会った頃からそうだった。それも、『好き』『気に入っている』というプラスの感情から来るものじゃない。ただ『そうでなくてはならない』という気持ちだけが見えた。 唇を歪めて見せると、瞳子さんは私に半歩近づく。身長差があるから座っている私のわずか上にしか来ない瞳が、すっと横に流れる。 気づくと彼女の右手が、私の肩越しに伸びていた。 「なに……?」 耳の後ろで乾いた音がする。私の髪がひとすくい、指の間をこぼれる音。 「あなたこそ髪を切ってるじゃない。こだわり、なくなったの?」 そう。瞳子さんの執着心に気づいたのは、実に簡単な理由。 私とよく似ていたからだ。 間違いなく夕子先輩の影響なのに、本人と似ても似つかぬロングヘアを目指した私。そのひねくれっぷりに自分でも呆れてしまう。先輩に憧れて同じ髪型に、なんて素直になれるのなら苦労はしない。 「良く気づいたわね。3センチくらいじゃ誰も気づかないだろうって思ってたのに」 これは本音だった。私の長髪は瞳子さんの派手な縦ロールとは違う。数年ぶりに髪を数センチ切ったところで、ロングヘアはロングヘア。大して見た目の違いはない。 「人間観察もうちの部に必要なことだから」 次に見せてくれるのは勝ち誇った笑みだと思っていたから、緩められた頬に驚いた。 結局のところ。私も瞳子さんも、大海原でしがみついていた丸太を手放したということなんだろう。髪型なんて他人から見れば取るに足りないものだけど、私には大事な大事な蜘蛛の糸に見えていた。 それは瞳子さんも同じだったと信じている。 もっとも、この先私たちが自由に空を飛べるのか海の藻屑となるのかは、誰にも分からないこと。 それはそれとして。 「『お姉さま』の影響力は絶大ね」 「……っ!」 他称『妹候補』だった身として。 他称『姉候補』を持っていかれた相手にぶつけるささやかな意地悪くらい、許してもらいたいものだ。 |
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