お蔵出し『パン事件』 |
「ですから私が行きます」 「それは可南子さんの勝手。なら私が一緒に行くのも勝手でしょう?」 「あの……二人とも……」 「瞳子さんこそ、薔薇の館の手伝いなどさっさと済ませて、早く演劇部で役作りに入られたら。『小公女』では役柄が普段と違いすぎて大変でしょう」 「演劇部の公演は『若草物語』ですわ。ちなみに世界名作劇場ではセーラから二作あと。間違えないでくださる?」 「瞳子ちゃんマニアック……というか、何歳?」 「ああ、あの生意気な子供の役なら地でいけますね。適材適所です」 「よく私がエイミーを演じるとご存じですこと。やはりあなた、わざと間違えましたわね?」 「……えっと……はい、ストップ!」 祐巳さまが右手で私の、左手で瞳子さんの腕を掴む。気づけばずいぶん接近していた私たちの身体は、紅薔薇のつぼみの細腕で引き離された。 「二人とも、どうしてこんなことで揉めちゃうかなあ」 「こんなこと……?」 「こんなことって……」 私と瞳子は揃って祐巳さまに反論しようとし、揃って口ごもる。 二人仲良くというのは腹立たしいけれど、どちらも同じ結論に行き着いたに違いない。 昼食のパンをどちらが買いに行くか。 ……確かにどう考えても『こんなこと』だ。 話は、祐巳さまが一年椿組にやって来たところにさかのぼる。 体育祭での賭けに(わずか五点差で)敗れた私に課された使命は、『薔薇の館で学園祭の手伝い』。水曜日から始まったそれももう四日目なのだが、相変わらず祐巳さまは教室まで私を迎えにやって来る。 最初のうちは私の逃亡を防ぐためだと思っていた。けれど昨日あたりから、それは違うらしいと分かってきた。彼女は単純に、一般生徒には敷居の高い薔薇の館に入りやすいよう、気を遣ってくれているだけのようだ。 まったくもって無駄なお節介だ。数週間前までは頼まれもせず押しかけていたわけだし、おまけに今は、私の中に山百合会幹部への憧れなどカケラもないから、手伝いに入ることに躊躇など無い。他の一年生たちとは違う。 もちろん私は、毎日律儀にやってくる祐巳さまにそんなことを言うはずもない。心配りに感謝しているからではなく、言って素直に引き下がる人ではないと学習したからだ。 祐巳さまと私と、罰ゲームでもないのに手伝いに参加しはじめた瞳子さん。この三人で一年椿組から薔薇の館へ向かうのが、ここ数日間の日課になっている。 ちなみに白薔薇のつぼみである乃梨子さんは、祐巳さまを待つことなく早々に薔薇の館へ向かうことが多い。山百合会幹部で唯一の一年生たる彼女には、早く着いて果たすべき役割が多いのだろう。パートタイマーの私には分からないことだ。 ただ昨日までと違っていたのは、今日が土曜日だということ。 祐巳さまは、一年椿組在籍のファンに『にっこり笑ってごきげんよう』のサービスを奮発して――白薔薇のつぼみを擁するクラスでも、山百合会幹部への幻想は尽きないらしい――私たち二人を連れ出した。 「私、今日はお弁当ないんだよね」 そして数歩目のところで、そんなことを言い出す。 「そうなのですか?」 「ユウキ――弟が『今日は学食で食べるから要らない』って言ってたから、私ひとりに作ってもらうのも悪いし、ミルクホールで何か買えばいいかなって。瞳子ちゃんは?」 「私は持ってきましたが」 「そう。じゃ、可南子ちゃんは?」 瞳子さんと反対側に居る私の顔を律儀に見上げ、祐巳さまが尋ねる。 どうでも良いことだが、両隣に身長差のある人間を連れていると首が疲れそうだ。幼い頃から身長に恵まれ過ぎていた私には、一生分からないだろうけれど。 「祐巳さまと同じです。パンか何かで済ませようと思っていましたから」 「そう? じゃあ瞳子ちゃん、悪いけど先に薔薇の館へ行っててくれる? 私と可南子ちゃん、ミルクホールに寄っていくから」 珍しくテキパキと段取りをしていく祐巳さまの声に、瞳子さんの眉が微かに上がる。 「では私もご一緒いたしますわ」 「え……でも……」 「瞳子さんはお弁当を持ってきているのですから、わざわざついてこなくても良いでしょう?」 割って入った私の言葉が、彼女の不機嫌さを更に上積みしたよう。焦茶色の鞄を持ち替えながらそっぽを向く。 「学園の敷地内ですもの。大した寄り道ではありませんわ」 ここで冒頭のやり取りにつながる。 ………………確かにどう考えても『こんなこと』だ。 「わかりました。祐巳さまは瞳子さんとご一緒に、薔薇の館へどうぞ」 「え?」 「祐巳さまの昼食なら、私がまとめて買って来ますから」 「でも……それは悪いよ」 「お二人が先に少しでも仕事をすませていれば、それだけ学園祭の準備も早く終わりますから」 『私はさっさと帰りたいです』という言外の意味を含ませた言葉に、祐巳さまは困ったような笑顔を浮かべる。 瞳子さんは明後日の方向を向いたままだから、その表情は窺えない。 「…………じゃ、そうしよっか、瞳子ちゃん」 「祐巳さまがそれで良いなら、私は構いません」 「では祐巳さま、ご希望のものがありましたらおっしゃってください。品切れでなければそれを買ってきますから」 「うーん……特にないかな。適当なパンを二つと牛乳をお願い」 「わかりました」 校舎の玄関を出て二人と別れた私に、祐巳さまが声を掛ける。 「あ、お金は後でちゃんと払うからね」 以前、ミルクホールでどちらが代金を支払うか、押し問答になった時のことを思い出したのだろう。妙に慌てた口調だ。 「わかっています」 小さく会釈して、私はミルクホールへと向かった。 別れ際にようやく見えた瞳子さんの顔は、さきほどの祐巳さまに輪をかけて苦々しげなものだった。 彼女に向けたもうひとつの底意は、しっかり理解されたようだ。 ――『祐巳さまと離れるのがイヤなら、素直にそう言えば?』―― ミルクホールは大盛況だった。土曜日にもかかわらず、学園祭間近で準備のため多くの生徒が学園に残るためだ。祐巳さまと同じように、土曜日だから弁当を持たされない家庭も多いらしく、平日以上に混雑している。 もっとも、生徒の方は三度しか経験しないイベントでも、売る側にとっては年中行事。その辺の事情はよく分かっているから、袋詰めのパンも普段より山の高さが増している。 とりあえず最後尾らしき場所に並び、左手首を持ち上げて腕時計を見る。十二時三十分。 いつもの昼休憩と違って時間制限は無いから、ゆっくり待とう。祐巳さまには悪いけれど。 選び出したパンを四つ、胸に抱えてカウンターから脇に離れる。向き直ったところで、列に並ぶ見知った顔と出くわした。こちらより先に気づいていたらしく、胸の前で小さく手を振っている。 武嶋蔦子さま。祐巳さまのクラスメイトにして、写真部の有名人でもある。私と言葉を交わしたことは一度しかないけれど、向こうは私のことを憶えていたようだ。 騒々しい出会いだったから、それも当然かもしれない。 「たくさん買ったわね」 胸に抱えた山盛りのビニール袋を見て、開口一番そうおっしゃった。 「ええ」 「それ、祐巳さんとあなたのお昼?」 「……そうですが」 どうして分かったのかと一瞬考えたが、答えはすぐに出た。 部活にも委員会にも所属しておらず、クラスで一緒にお昼を食べるほど親しい友人も居ない。そんな私が多くのパンを抱えていれば、それは薔薇の館の手伝い以外に無いわけだ。蔦子さまなら、友人につきまとっていた私の環境など一般教養かもしれない。 「じゃ、付き合って」 「え?」 列が動き半歩前進した蔦子さまが、私の右肘を掴んで再び行列に取り込む。後ろに並ぶ一年生が軽く睨みかけたが、私が持つパンの山を見て割り込みではないと納得したらしく、何も言ってこなかった。 「私はもう買い終えたのですが」 「こっちはまだですもの。薔薇の館ならちょうど私も用事があるの。一緒に行きましょ」 「祐巳さまが待っているので……」 「彼女なら、私の名前を出せば納得してくれます」 納得してくれるなら待たせて良いのかとも思ったが、当然のように前へ向き直り列の消化を待つ横顔を見ていると、抗議をする気も失せた。 「わかりました」 「素直でよろしい」 「わかりましたから、手だけは放してくれませんか」 さっきから右肘を引っ張られ、微妙なバランスの上に出来たパンの山が崩れそうなんです。 蔦子さまがお釣りを財布にしまい終え、列の脇に逃れる。ぽっかり空いたひとり分の空間は、後ろに出来た人垣があっという間に飲み込んだ。混雑が解消されるのはかなり先のことになりそうだ。 「じゃ、行こっか」 パンを二つ抱えた蔦子さまが、私を見上げて笑う。 「飲み物も買っていきますので」 「ああ、私もだ」 牛乳ふたつとカフェオレひとつを吐き出した自販機に別れを告げ、私たちはミルクホールを後にした。 「いやー、やっぱりこの時期は混んでるね。時間が掛かって大変」 「私だけなら、とっくに買い物を済ませていたんですが」 あからさまな皮肉をぶつけても、軽い調子の「ごめんごめん」で受け流された。 「ここで会うのは、あのとき以来ね」 一緒にわずかな距離を歩くためだけに、ほとんど面識のない私を捕まえたわけもなく。 案の定、蔦子さまは私に特別の用事があったよう。 「あなたが祐巳さんを追いかけていたこと、彼女に言ったのは私なの」 歩きながら並べられた言葉に、私は無言で頷く。あれだけ祐巳さんを被写体にしていれば、後をつけ回す私が映り込むことも一度や二度では無かったと思う。 祐巳さまの鈍さは筋金入りだから、自分で気づくとは思えなかった。誰かに言われたのだとすれば、いつも彼女を見ている蔦子さまは大本命だろう。 ……今となってはどうでも良いことだ。 「もうあんなことはしません」 「ああ、別に釘を刺そうってわけじゃないの」 ただひとつ思いついた『蔦子さまが私に話すべきこと』をあっさり否定され、私が首を傾げる。 「可南子ちゃんが祐巳さんを追いかけていたのは、ちょっと前から知ってた。でも、それだけなら別に良いかって思ったのよ。程度の差はあるけど、憧れの薔薇さま方の追っかけって居ないこともないし」 「はい」 「私が祐巳さんに話したのは、ミルクホールのやりとりがきっかけ」 思いがけない言葉に、私はしばし相づちを打つのも忘れてしまった。 数秒の沈黙のうち、私はあの日の出来事を反芻する。けれどやはり、私には蔦子さまの意図するところが分からなかった。 「どうしてですか? たかがパンをいくつか押しつけようとしたくらいで。普通に考えればストーカーの方がタチが悪いと思いますけど」 あえて避けてくれていたと思われる『ストーカー』という言葉の響きに眉を潜めるけれど、蔦子さまがそれに触れることはなかった。 「パンを買ってきてプレゼントってこと自体は構わないの。問題はパンの種類」 「え?」 「ジャムパン。チョココロネ。アーモンドデニッシュ」 パンの名前を並べ立て、覚えてないか、と笑う蔦子さま。自分ですら忘れていたものを差し出され、彼女の記憶力に舌を巻いた。 ただそれは、あのときの自分がいかにも買いそうな組み合わせだった。 「お好きなのをどうぞって差し出すつもりなら、できるだけバラエティに富んだものを選ぶはずなのに、見事に甘いパンばかり。でも祐巳さんって、そんなに甘いもの好きじゃないのよね。少なくとも昼食にしようと思うほどには」 「…………」 「だからあれってさ、祐巳さんじゃない、他の誰かの趣味でしょ」 「……私のことをよく分かっておられるようで」 冷たい言葉で取り繕えなかった部分が、態度に出ていたらしい。私を見て蔦子さまは複雑な笑顔を浮かべる。 「可南子ちゃんは祐巳さんの方を向いてはいるけど、祐巳さんのことを見ていない。そう思ったから、お節介おねえさんは彼女に告げ口したのよ」 蔦子さまのカメラには、目に見えないものも映るらしい。 私が愛した夕子先輩の姿が、フィルムにしっかり焼き付けられたようだ。 薔薇の館を前にして、蔦子さまは立ち止まった。 「用事はやっぱり今度にするわ。ここでお別れね」 「……『今度』があるんですか?」 「手厳しいなあ」 話をするための口実だったはずなのに、それを捨ててしまわない。その姿を揶揄するくらいしか、私に反撃の糸口はなかった。 他に残されたのは、白旗を全力で振り回すことだけ。 「やめますよ」 「……え?」 「薔薇の館での、学園祭の手伝いです。祐巳さまに言われて始めたことですけど、それこそ『私の名前を出せば納得してくれる』のではないですか」 蔦子さまは、祐巳さまから私を遠ざけようとしている。そしてそれは正しいことだ。そう思ったのに、彼女は何故か慌てて首を振る。 「誰が『手伝いをやめろ』なんて言ったの?」 「ですが……」 「お願いしたいのは、ちゃんと祐巳さん自身を見てあげてってことだけ。思い込み抜きでちゃんと見てみれば、けっこう面白い人なのよ?」 「それが出来れば苦労しません」 「今のあなたなら出来るわよ」 だって、と蔦子さまは、パンを抱えたまま器用に私を指さす。私の身体の前に出来た、彼女より幾分大きなパンの山を。 「和風ツナサンドにベーコンエッグ。ベーグルにクロワッサン。ずいぶん買ってくるものが変わったじゃない」 「蔦子さまは、祐巳さまのことをよくご存じなんですね」 去り行く背中に声を掛ける。皮肉抜きの素直な気持ちだった。 「ふふん。伊達に何百枚と写真を撮ってきていませんよ」 「納得です」 誇らしげに語る蔦子さまの腕で、パンの包みがガサガサと鳴る。 そんな彼女と同じように。 ツナサンドを食べる祐巳さまを、もう少しだけ見ていようと思った。 「可南子ちゃん?」 「……」 「可南子ちゃん……」 「……え? 呼ばれましたか?」 「何度もね……じゃなくて」 「はい?」 「そんなに見つめられたら、なんだか食べにくいよ」 |
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