Circle of Spring



 その建物の前で、私は両手を頭の後ろに回した。中途半端な長さの髪を束ねたゴムを少しだけ上にあげると、少し気持ちが引き締まる。
「よし」
 自分に向けて小さく呟き、ほんのひととき地面に投げ出したスポーツバッグを右肩に掛ける。
 私は再び歩き出した。

 『薔薇の館』といういかめしい名に相応しい、時代がかった建物。古びた階段を上がったところにそびえる、大きな扉。それを初めて開いた私に、三組の瞳が向けられる。『不審』の二文字で埋め尽くされた視線を浴びて少し震えながら、私はなんとか台本どおりの台詞を吐き出した。

「私を妹にしてください!」

 真剣に、小首を傾げ、無関心な顔で。
 赤、黄、白。三人のつぼみは、それぞれのやり方で見知らぬ新入生に応じた。


 机には黄薔薇のつぼみが入れてくださったレモンティーが置いてあるけれど、それに口をつける余裕などなかった。何度も書き直し練習を重ねた末に留守番を務めているノートに申し訳ないくらいボロボロの説明を、紅薔薇のつぼみが辛抱強く誘導してくださった。
「なるほど。リリアン中等部の生徒なわけね」
「違うでしょ。もう四月一日だから、今日から高等部の生徒よ」
「いつも細かいなあ蓉子は。入学式が済むまでは中学生みたいなものよ。別に良いでしょ」
「良くないわ。だって、今日から高等部の生徒になったからこの子は来たんでしょうし」
「あ、そっか」
 正面に座った紅薔薇のつぼみと、その横に座った黄薔薇のつぼみのやり取りに耳を傾けるだけ。もちろん、それで何か対応策を練ることが出来る余裕なんか無いのだけど。
「で? 誰の妹になりたいの?」
「……あ……」
 席が足りないわけではないのに、二人のつぼみの斜め後ろに立って壁にもたれる白薔薇のつぼみ。左手で持ったソーサーからカップをつまみ上げながら、彼女が呟く。独り言のような小ささでも、その澄んだ声ははっきり聞き取れた。
「聖。話に参加するのならこちらに座って。突然入ってくるから、この子驚いてるわ」
「江利子と二人で脱線し続けるから本題に戻してあげたんでしょ」
 生あくびをかみ殺そうともせず、大口を開ける白薔薇のつぼみ。『退屈』という態度を隠そうともしない。そう考えてみると、机には何枚もの書類が積み上げられてしているが、その山が二つしかないことに気づいた。
 山百合会の幹部はあまり揃うことがないという噂を聞いていたけど、元凶はこの方のようだ。
「確かにそうね。えっと、あなた……じゃ話しにくいわ。お名前は?」
 いっぽう、目の前に赤のボールペンで細かく書き込みをした書類を置いた紅薔薇のつぼみ。改めて、名乗りもせず乗り込んできた失礼な新入生に向き直る。
「……築山三奈子です」
「三奈子さん、ね。聖の言うとおり、私も聞きたいわ。私たちの中で、誰の妹になりたいと?」
「わかりません」
「え?」
 私が三択問題で『4』と回答したものだから、いかにも常識人といった紅薔薇のつぼみは呆気に取られ言葉に詰まった。反対に、残りのお二人はわずかに興味を持ったふうに――珍獣を眺める動物園の客のように――私を見つめる。
 無言の視線に促され、先を続けた。
「部活には『体験入部』というものがありますよね?」
「え? ……ええ、そうね」
 あきれた紅薔薇のつぼみを勢いだけで圧倒して、けたたましい新入生がまくし立てる。
「では、リリアンで姉妹の契りを結ぶ前に『体験妹』というものがあっても良いのではないかと考えまして」
「語呂わる……」
「中等部の頃から、山百合会の皆様にはずっと憧れていました。どうしても一度、私を知ってもらって、お気に召されれば妹にしていただきたいと思います」
「ミーハー……」
「聖! 後ろでごちゃごちゃ言わない!」
「で? 具体的には何をするの?」
 どうやら白薔薇のつぼみに対してだけ大きな声になるお仲間を尻目に、傍観を決め込んでいた黄薔薇のつぼみが問い返す。
「はい。山百合会の皆様の妹になるということは生徒会のお手伝いをするということですから、とりあえずは薔薇の館で雑用などさせていただければと」
「あのね、あなた。リリアンでの姉妹って、部活に入るかどうかってこととは根本的に違うのよ。」
「良いじゃない、細かいこと言わなくても。私は良いと思うな」
「江利子までそんないい加減なことを……聖がうつったのかしら」
「私は伝染病か」
「でもね、私たちも妹を作れってお姉さま方にせっつかれるのは目に見えてるし。今から下級生と相性を確かめ合うのは良いことだと思うわ。付き合ってみてやっぱりダメでしたって時も、それは仕方のないことだし。そうでしょう?」
 黄薔薇のつぼみは、私に視線を送る。気だるげな流し目を受けたなんて、人生で初めてかもしれない。
「はい! もちろん、それはわきまえています!」
「ね?」
「はいはい。江利子は賛成ね。じゃ、聖は? ずいぶん毒づいていたけど、反対?」
「勝手に決めないでよ。私は賛成」
「どうしてっ!」
「その方が、蓉子が困りそうだから」
「……………………!!!」
 悪口雑言が溢れすぎて言葉にならない、という光景を初めて見た。背後にまします白薔薇のつぼみを振り返る瞬間にかいま見えた表情は、地獄の鬼もかくやという形相。
 それでも再び私に向き直ったとき、引きつりながらも微笑みを顔に貼り付けておられるあたりは流石だ。
「わかった。私も別に絶対反対というわけではないし。今日のところは気が済むまで居ればいいわ」
「ありがとうございます!」

 では、と私は床に置いていたスポーツバッグに手を伸ばす。真新しい制服には不似合いなそれを膝の上に載せ、ファスナーを大きく開けた。
「ん? ……軍手?」
 身を乗り出して覗き込んだ黄薔薇のつぼみは、いち早く私の荷物を見た。言葉どおりの使い古した軍手に続き、雑巾を二枚取り出す。
「はい。とりあえず、部屋の掃除から始めます」
「そんなことで良いの? 山百合会の手伝いっぽくないけど」
「とんでもありません。新人はまず雑用をするに決まっています」
 紅薔薇のつぼみが机に這いつくばらんばかりに前進する仲間の手を引きずり、席に押し戻しながら笑う。
「見た目どおり体育会系ね……中等部の時は何を?」
「バレーボール部に所属していました」
「なるほど……」
 立ち上がった私の身長を見て、深く納得いただいたようだ。
「では床掃除から入りますので、皆さまは机でお仕事を続けてください」
「あら、普通は棚とかカーテンレールとか、上の方からゴミを落としていくものじゃない?」
「……それは人が居ないときの方が良いと思いますよ」
「ああ、そうね」
「聖……いつも掃除をしてないのがバレたわね」
「はいはい」
 ようやく反撃できて得意げな紅薔薇のつぼみと、耳掃除ジェスチャーまでつけて呆れる白薔薇のつぼみに、それを見て面白そうに笑う黄薔薇のつぼみ。
 言いたい放題言っているようでいて、仲の良さそうな三人だ。


「歓迎会の……」
「……去年は……」
 漏れ聞こえたところによると、今日の議題は新入生の歓迎会についてのようだ。薔薇さま揃う新学期までに出来る範囲で作業を進めたい紅薔薇のつぼみが、あまり熱心そうでないお二人を引きずっている。
 白薔薇のつぼみには、普段の放課後には薔薇の館にあまり出入りしないのに休みの日には顔を出すというアマノジャクなところがあるらしく、それで春休みの最中に会合が持たれたらしい。私にとっては最大の幸運というところだ。もっとも三人のつぼみが揃うまで待つ気でいたので結果は変わらないけど、出来ることなら早く此処に来たいと思っていたから。
 そんなことを考えながら床を拭いていると、雑巾がバケツにぶつかってしまっていた。危ない危ない。

 話の中身が歓迎会の催し物に踏み込んでくると、私がそこに居るわけにはいかなかった。たった一人とはいえ歓迎される側がいる場所で、そんなことを話すわけにもいかないだろう。
 それで私は、二十分ほど前から二階の扉を出て、ひとり階段の掃除にいそしんでいた。
「ありがとう。もう良いわ」
 階段の中ほどを拭いていた私に、頭上から声が掛かる。
 斜め四十五度の四つんばいという少し苦しい姿勢のままに顔を上げると、紅薔薇のつぼみが茶色の扉を開けて立っていた。
「あ……ひょっとして、今日はもう終わりですか」
「ええ。あなた一人残すわけにもいかないし。その辺で切り上げてちょうだい」
「はい」

 固く絞った雑巾をスーパーのレジ袋に入れ、そのままスポーツバッグに潜り込ませる。金属音とともにファスナーが閉まるのを待って、いつの間にか私の隣に立っていた紅薔薇のつぼみが口を開く。
「今日はありがとう。おかげで助かったわ」
「いえ……こちらこそありがとうございました」
「それでね……」
 何を告げられようとしているのかくらい、その顔を見れば分かる。紅薔薇のつぼみは真剣そのものだったから。
「良かったら明日からも、いえ新学期からでも良いんですが、またこちらに来てもよろしいでしょうか? まだ一階の物置は掃除してませんし洗い場だって」
 だから私は思いつくまま言葉を投げつけ、その時間を先延ばしにしようとした。たとえそれが数秒間に過ぎなくても。
「それは……ちょっと困るわ」
 聞き分けのない駄々っ子に言い聞かせる母親。その役柄にこれほど似つかわしい高校二年生というのも珍しい。
 厳しくも優しい、その姿勢は。
「妹になりたいって下級生がみんなここに押しかけてきたら、大変なことになるのよ。別に私たちが自惚れて言っているんじゃなくて、この学園における『山百合会』という制度の問題なのだけど」
「……」
 自惚れ云々は不要な謙遜だと思ったけれど、口には出さなかった。
「それに、姉妹というのはお互いがお互いを選ぶべきものでしょう? 新入生を拒まない部活動や委員会とは、根本的に違うのよ。今日、私たちはあなたのことを知ることが出来た。今度は私たちがあなたも含めた下級生を知る番だと思うの」
「今日はけっこう面白かったし、気が向いたら声かけるから。当てにしないで待ってて」
 黄薔薇のつぼみが、フォローになっているようないないような、ふわふわした台詞を口にする。
「そう……ですか」
「それにね。あなたが生徒会の仕事をしたいと思うのなら、別に私たちの誰かの妹になる必要はないのよ。役員選挙には現生徒会の妹しか出れないなんて決まりはないのだし」
 違うんです。
 薔薇のつぼみ以外の人間が生徒会選挙で勝てるかどうか、という現実的な問題は別にしても。
 つぼみを押しのけて薔薇の館に入る。それは規約で定められた生徒会の在り方ではあっても、私が憧れていた『山百合会』の対極にある行為なんです。
「てなわけでさ。今のところ私たち三人の妹になるのは望み薄だから、お姉さまは他で見つけたら?」
 相変わらず壁にもたれかかったまま、白薔薇のつぼみが低い声で呟く。
「聖っ!!」
「何よ、こういうのははっきり言ってあげた方がいいんだって」
「だからって……」
「いえ、白薔薇のつぼみのおっしゃるとおりです」
 紅薔薇のつぼみが目を大きく開いて驚く。どうやら私がこんなにあっさり引き下がるとは思っていなかったらしい。
 ただでさえ心労の多そうなこの方の、悩みの種の一つになった自分が恥ずかしい。
「今日はありがとうございました」
 スポーツバッグの肩紐をぎゅっと掴んで立ち上がり、深々と頭を下げる。三人の視線を感じるけれど、顔は上げない。上げられない。
 人生でいちばん長いお辞儀の後に、私はすぐさま振り向き歩き出す。
「失礼します」
 礼儀作法に反した挨拶であったことは許してほしい。
 そうしないと、歪んだ顔を見られてしまうんだから。

 たとえすぐに忘れ去られてしまうものであっても。
 つぼみの記憶に残るのがぐしゃぐしゃの泣き顔では、悔いが残って仕方ない。


 私は無造作にノブから手を放したが、扉は音を立てなかった。
「ちょっと待って」
 最後に残った左手を掴んだのは、紅薔薇のつぼみだった。私は絶対に振り向かないから、声だけで判断するしかないけれど。
「……なんでしょうか?」
「ここを気に入ってくれたのなら、いつでも遊びに来てくれていいのよ」
 押しかけ妹はちょっと困るけれど、と言い添えるその顔が容易に想像できるから、私はあえて強く彼女の手を振りほどいた。
「あ……ありがとうございましたっ!」
 壁を越えて外まで聞こえそうな大音量で、そっぽを向いたまま百二十度のお辞儀。驚いた紅薔薇のつぼみをそのままに、顔を上げきらないまま階段に向かい。
「あ」
「ちょ……」
 踏み出して二歩目で、私の左足から地球が消えた。
「…………つぅっ!」
 辛うじて宙返りだけは避けたけれど、代わりに三つ下の段で身体を支えた右足が、変な方向に着陸。なんとか手すりに両手をついて立つことは出来たが、足の甲からかなりの痛みが走っている。
「だ……大丈夫っ!?」
「来ないでください!」
「あ……」
 階段を駆け下りかけた紅薔薇のつぼみが、傍若無人な下級生の言葉で善意の足を止められる。そんな言葉を聞いてもなお、彼女の、そして物音に部屋を飛び出した二人のつぼみの顔には、ただただ純粋な気遣いの表情しなかい。
「ご……ごめんなさい。でも、大丈夫ですから」
 言って私は、手すりから手を離す。右足から勢いを増した痛みがはい上がるけれど、私は笑顔を作る。
 数秒前に流れた涙は、もう痛みによる涙と区別が付かないはず。
「とても大丈夫そうに見えないわよ」
「本当に大丈夫ですから」
 強がる私に駆け寄ろうとする紅薔薇のつぼみの手首を、一本の手が繋ぎ止める。
「聖……」
「………………」
「……」
 私に聞こえないよう囁いたのは、白薔薇のつぼみの気遣い。私はそれを有り難く受け取った。
「保健室は本館の一階。職員室の隣よ。外のバス停に行くよりそっちの方が近いわ」
「ありがとうございます」
 冷静な黄薔薇のつぼみのアドバイスは、とても役に立てられそうもなかったけれど、その気持ちはやはり嬉しくて。
「無理ならすぐ戻ってきなさい」
「…………はい」
 紅薔薇のつぼみと、守られるはずのない約束を交わした。


 建物が見えなくなるまで。三人のつぼみに見えないところまで。その気持ちだけが私を支えていた。
 だから、ほとんど初めて入った高等部の敷地でどこをどう来たのかなんて判らない。気づくと私は、生い茂った銀杏並木の陰に横たわる、古びたベンチに座っていた。右足の痛みは引くどころかますます強さを増していて、歩くことも困難だったけれど、座ってしまえば我慢できる痛みに思える。

 吹奏楽部の楽器別練習と思しき不協和音が遠く聞こえるだけ。知った顔など誰もいない、無人の荒野と変わらない。
「どうしよう」
 だから私は、みっともない独り言が声になっても構わなかった。今すぐ吐き出さなければ、この気持ちが内臓を埋め尽くしてしまいそうだった。
 見上げれば、まだ小さな緑のパラソルでは隠しきれない空の青。
「どうしよう。どうしよう」
 分かっていた。
 容姿も人並みなら、学業も運動も平均点。そんな人間が押しかけてきて、簡単に妹にするおめでたい人が居たらお目に掛かりたい。ましてやあの方々は、大勢の下級生が憧れる薔薇のつぼみ。星の数ほど居る候補者の中から、何が悲しくて私なんかを選び出さなくてはならない。

 私は、中等部最後の一週間を費やして、今日の計画を立てた。
 高等部に籍が移った今日。私が妹になる資格を得た日。つぼみの方々が姉になる資格を得た日。誰より早く立候補し、誰よりも早く拒絶されようと。
 もちろん、つぼみのどなたかが薔薇の館に招き入れてくれる可能性を考えないではなかったけど、それはコンマの下にいくつゼロが並ぶか分からないくらいの確率だと正しく理解していた。
 だから私は、今日を最後に山百合会なんてものは忘れ、お嬢様学校の緩やかな日常を怠惰に過ごすつもりだった。ただ一日だけ、『柄にもなく無茶なことやったなあ』と笑って振り返ることのできる思い出が欲しかった。
 ただそれだけ、だったのに。
「どうしよう。どうしよう。どうしよう」
 こんな結末になるとは予想もしていなかった。ひどすぎる。

 正面から理を尽くして諭してくださった、紅薔薇のつぼみ。
 未来の可能性を摘み取らず送り出してくださった。黄薔薇のつぼみ。
 早く別の道を探せと背中を押してくださった、白薔薇のつぼみ。

「忘れるなんて……出来ません」
 それぞれの優しさを見せつけられて。何も知らず憧れていた昨日までよりずっと、あなたたちのことを好きになってしまった。
 コンマの下に並ぶゼロは減るどころか増えてしまったのに、ますます思い焦がれてしまうなんて。
「それは困ったね」
「……っ!」
 隣から聞こえてきた声に驚いて上半身が跳ね上がり、横に向き直る。そこには高等部の制服に身を包んだ、見知らぬ女性が座っていた。よく動く大きな瞳が特徴的な人だった。肩に掛かるか掛からないかという中途半端な長さの黒髪が陽光を吸い込む。
「おお。けっこう元気じゃない」
「……失礼ですが、どなたでしょうか」
 今ここにいる私が言うのも何だが、春休みの学園にいるのだから、新入生とは考えにくい。ということは必然的に先輩にあたる相手。それなりに取り繕った抑揚のない声で応える。これっぽっちも取り繕えていないだろう赤い目元のことは考えない。
「通りすがりのお節介おばさん」
「……は?」
「いやー、下級生らしき生徒が薔薇の館を面白い走り方で飛び出してくるのを見てさ。つぼみ達が雁首そろえて窓からお見送りしてるし、これは只事じゃないなと思ってついてきました」
「……本当にお節介ですね」
 上級生であることは間違いなさそうだったが、誤魔化しもそろそろ限界だ。外面を良く保つにも僅かながらエネルギーが必要で、今の私にはそのストックすら無い。不機嫌をまき散らす生意気な後輩で十分だ。
「察するに、薔薇の館に押しかけて『妹にしてください』って言って、あっさり振られちゃった、と」
「な……」
 なぜそれを、という言葉は飲み込めたけれど、表情まではそうはいかない。意地の悪い笑顔を見るに、全てお察しいただいたようで。
 生意気な後輩としては、黙って下を向く以外にない。
「はは、怒らないでよ。だいたい、そんなに珍しくないのよね。新入生が薔薇の館に押しかけるのって。四月一日ってのはちょっと早いけど」
「……え?」
 いま、かなりショックなことをさらりと言われたような。
「だからさ。山百合会の幹部連は中等部でも憧れの的になってるでしょ? そのほとんどは遠くで見てるだけなんだけど、どの世代にも一定の確率で馬力のある子が居るのよね。入学式が終わった後ってのが定番だから、あなたはかなり早いんだけど」
「そんな……」
 誰より先に、妹に立候補する。十人並みの頭で考え出したにしては良いアイディアだと思っていたのに。まさかそれが、薔薇の館での年中行事だったとは。
 私は更に深くうなだれた。結んだ髪の毛先が地面に付きそうだったけど、そんなことはどうでもいい。
「そう落ち込まなくてもいいって」
「だってそんな……今日の私の全てが、とっくに手垢の付いた考えだったなんて」
「あ、ひどい言いぐさ」
「……?」
「センパイに対して、ちょっと失礼じゃない?」
 妙なイントネーションに引っ掛かり、体勢はそのままに首だけを曲げてみる。人差し指で自分を示す仕草でアピールする彼女は、無駄に元気だ。
「お気に障ったのなら謝ります。申し訳ありません」
「え? ああ、違う違う。下級生のくせに無愛想だなあとか心配して来た人を邪魔者扱いは非道いとか言いたいんじゃなくて」
 ……おもいきり言ってますが。
「一般的なセンパイとはちょっと違うんだな、私。わかる?」
「………………あ」
 敢えて『先輩』を強調した意味が、ようやく分かった。そのことを察したらしく、彼女は一年遅れの仲間に笑いかける。
「そ。私の場合は入学式の日だったけどね。薔薇の館への突撃は」
「結果は……聞かなくても分かりますね」
「もちろん。去年つぼみの妹になっていたのなら、今日あなたと会う場所も違っていたでしょうね」
 薔薇の館で出会った三人の中に彼女がいなかった以上、『先輩』の試みが私と同じ結果になったのは自明のこと。

 ならば。
「どうして」
「ん?」
 私にはなおのこと、彼女が理解できない。
「どうして笑っていられるんですか」
 去年の傷に塩を塗り込むような存在である、私を前にしているのに。
 彼女の心理は、今の自分には想像もつかなかった。
「私だって当時は結構落ち込んだんだよ。今のあなたとおんなじ。そのときの辛さはよく覚えてる」
「……はい」
「でも、薔薇さまやつぼみたちと関わっていくには、妹になる以外にも方法があるって気づいたの」
「それは……なんですか?」
「内緒。それは自分で考えてみて」
「そんな……お願いします。私、一人じゃ立ち直れそうにありません」
 彼女はいたずらっぽく笑うけれど、私は必死だった。襟元が歪んでしまうくらい、制服の腕を掴んでしまう。
「なんて、別に意地悪してるわけじゃないのよ。人それぞれに方法があるから教えられないだけ。そうね、直接的には学園祭や体育祭の実行委員になってお手伝いをしてもいいし、間接的には部活や委員会に打ち込むのもいい。それが、山百合会の一員として薔薇さまやつぼみたちと過ごすということだもの」
「じゃあ、あなたの方法を教えてください。」
「あなたが選んだ道が同じなら、いずれ分かるわ」

 所属する部活か委員会の勧誘なら、これほど上手いテクニックは見たことがない。
 入学式すら終えていない新入生を一人、しっかり捕まえてしまったんだから。

「じゃ、私はそろそろ帰るわね」
 気がつけば、空はすっかり夕暮れに落ちてしまっている。おそらく名前も教えてくれないつもりであろう『先輩』は、ライトブラウンの鞄をつまみ上げる。
「あ、私も……」
 立ち上がる彼女にならい、私も足に力を込めて。
 そこでようやく思い出した。
「ん? どうしたの?」
「……ご迷惑をおかけしたついでに、もう一つお願いが」
「なに?」
「人を……呼んでいただけませんか」
「え? どうしたの?」
 この人は、さっき見た私の変な歩き方を、もう忘れているらしい。大人びているようで、意外と抜けているところもあるようだ。
「足が痛くて……立てないんです」


 私が長い長い一日を終え家に帰ったのは、ヒビの入った足の甲をギプスでがっちり固めた後のことだった。
 私が薔薇の館に入り損ねた日は、同時に生まれて初めて救急車に乗った日に重なった。










〜エピローグ〜


 最後くらいは、黙って見送るつもりでいた。
 この学園で同じ時を過ごした薔薇さまのご卒業を。
「あらっ? えっ? 私ったら何を?」
 なのにどうして、一人勝手に感極まっちゃっているんだ。
 つぼみやその妹たちすら取り乱していないのに、迷惑をかけ続けた『天敵』の私がなぜ。そう思うのに、壊れた涙腺はちっとも言うことをきいてくれない。
 春の風が、二年前の悲しさの欠片を運んできてしまったよう。
「やだ、ごめんなさいっ」
 気づくと私は、訳の分からないことを言いながら走り出していた。
「何だろ、あれ」
 白薔薇さまの呆れたような呟きが聞こえたけれど。
 いちばん呆れているのは、誰より自分自身だった。



 この学園で無意識に走り出すと、この場所に来てしまうようになっているんだろうか。新聞部で学園を駆け回った二年の間も、決して近づかなかったこのベンチに。
 あのときは春休みでほぼ無人に近い校舎だったが、今は違う。ここに来る途中でもそこかしこで別れを惜しむ卒業生と在校生の姿が見えた。
「もう……行ってしまったでしょうね」
 左の手首を上げて時計を見る。薔薇さまたちから別れて、ゆうに二十分は経っている。
 一人残してきた真美は姉に似ずしっかりしているから、上手く取り繕ってくれただろう。
 けれど。
「最初から最後まで……みっともないなあ……」
「それは困ったね」
「……っ!」
 隣から聞こえてきた声に驚いて上半身が跳ね上がり、横に向き直る。そこには高等部の制服に身を包んだ、良く知る女性が座っていた。

 二年前の春から変わらなかった、お姉さまの髪型。強い風がその下を通り過ぎ、爽やかな音を鳴らした。
「おお。今度は足にヒビ入れてないみたいね」
「お見送りは薔薇の館ではありませんでしたから」
「それは何より」
 事前に準備していても、上履きなど最低限の荷物は卒業式当日にしか持ち帰ることが出来ない。いつもより膨らんだ鞄を隣に座らせて、お姉さまは上半身だけで大きく伸びをする。
「どうしてここに来ると分かったんですか」
「ひとつ。三奈子が真美ちゃんと一緒に薔薇さまのお見送りに行った。ふたつ。三奈子が薔薇さまを冷静にお見送りできるわけがない。みっつ。帰巣本能」
 背もたれに左腕を掛けてだらしなく座ったお姉さまは、指折りまで見せてからかう。
「捨て猫ですか私は」
「どっちかというと犬かな。忠犬ミナ公」
「……いまどきダジャレ見出しは流行りませんよ」
「編集を一年離れたブランクはおっきいか……」
「大丈夫です。お姉さまの勘は鈍っていませんよ」
 こうしてまんまと会えたわけですから。飼い犬が保証します。
「でしょ?」
「それに、お人好しっぷりも健在ですね」
「え?」
「妹が卒業する自分より先に薔薇さまを見送りに行ったら、怒ってしかるべきです」
「だって取材でしょう? 当然のことよ。それでこそ三奈子だわ」
 まっすぐ見つめてくる大きな瞳から、思わず目を逸らす。
「…………二年間、ありがとうございました。今日のように姉を放り出して薔薇さま薔薇さまと騒いでいる、ひどい妹でしたけど」
 無茶な取材と人目を引くだけのスクープでしか、山百合会と関われなかったひねくれ者。そんな人間らしく、お姉さまの顔も見ずに言う。
 さっきより強く涙腺が刺激されたとか、そんな理由じゃない。
「私は楽しかったよ」
 衣擦れの音で、お姉さまもベンチに座り直したことが分かる。
 二人見つめ合って別れを惜しむような姉妹にも少しは憧れるけれど、私たちはこれでいい。二人同じものを見ていられるなら、それで。
「……」
 見上げれば、今日もまた底が抜けたような青空。
「私は、三奈子の中で四番目になれたら満足だな。あの薔薇さま達に次ぐ位置につけるなんて、なんであっても凄いことだもの」
「………………」
 その言葉でやっと、私の本当の『いちばん』が誰か分かったけれど、口には出さない。ただただ、バカな妹でいたかった。
 この人はそれを許してくれる人だから、最後まで甘えさせてもらおう。


「でも、一つだけ心残りがあるんだ」
「……なんですか?」
「学園で取材できてない人が一人いるんだよね。新聞部の元部長として、それがちょっと悔しくて」
「教師も山百合会も、学園内で大抵の有名人には会ったと思いますが……良いですよ。どこでも付き合いましょう。卒業生なら早くしないと帰っちゃいますよ」
 首を捻りながら、私は乗り気になっていた。卒業する元部長が最後のお仕事。なかなか面白い。新聞部姉妹のフィナーレには相応しい。
「ああ、そんなに急がなくても大丈夫。その人は在校生だし、逃げないから」
「在校生? いったい誰なんですか?」
「学園で知らぬ者など居ない超有名人」
「…………は?」
 人差し指を突きつけられた私は、この上ない間抜けな声を漏らしてしまう。
「新聞部部長、築山三奈子さん」
「……それ、取材じゃないでしょう」
 盛り上がった記者魂を殺がれた私は、呆れて呟く。対照的にお姉さまのやる気はすごい。身を乗り出してこちらにぐんぐん近づいてくる。
「いいえ、取材よ。真美ちゃんには話を付けてるから、四月第一週発行号の記事になるわ」
「あの子は何やってるんだか……。大体私のどこを叩いても、生徒の興味を引く記事なんか出ませんよ」
「いいえ。きっとみんなが知りたがる秘密を、あなたは隠してる」
「ありませんってそんなもの」
 私は新聞部に高校生活を捧げた女。そんなネタがあればとっくに自分で使っている。
 そう思うのに、お姉さまは自信満々。
「じゃ、私が何を聞いても答えてくれるのね」
「もちろん。いくらお姉さまの頼みでも、真美は編集に私情を挟みませんからね。あの子が容赦なくボツにする程度のことしか出てきませんし」
「よし。その言葉、忘れないでね」
「はい」
「では質問です」
 鞄から手帳と愛用のボールペンを取り出し、カチッと音を立てて芯を出す。見慣れたその仕草が初めて自分に向けられ、私は少し緊張した。
「築山三奈子さん。あなたは新聞部での活動、その中でも山百合会に関する記事を通じて学園に知られた方です」
「前置きは不要です。本題に入ってはどうですか」
 山百合会の誰かと誰かを足したような口ぶりで応える私。なにせ取材を受ける側に立ったことなどないから、頭に浮かぶモデルは薔薇さまとつぼみ達しか居ないのだ。
「読者全員が知りたがっている、あなたの秘密があります」
「いったいなんでしょう」

「あなたがいちばん憧れる薔薇さまは、三人のうちのどなたですか?」

「……ぐ……」
 予想もしなかった質問に、薔薇さまごっこはあえなく潰えた。
「あなたが薔薇さま達に並々ならぬ関心を持っていることは、生徒のほとんどが知るところです。ですが、その中であなたが個人的にもっとも惹かれたのは、どの薔薇さまだったのですか」
「……答えなくちゃダメですか、それ」
「三奈子さん、あなたは先ほど何と仰いましたか?」
「だけどほら新聞部の公平な報道姿勢が疑われるかもしれませんしっ!」
「たしか三奈子、四月からは受験で部活を引退するのよね」
「……はい…………」
 真美のやつ、お姉さまの企みまで知っていたわね。そうでなければ『築山三奈子の取材記事』なんかにゴーサインを出すはずがない。さっき私自身が言ったとおり、真美は編集に私情を挟まないのだ。今日だってかなりの時間を一緒に過ごしたのに、それらしい素振りすら見せないなんて。
 やっぱりあの子は大した妹だ。
「じゃあ、どうぞ。できれば詳しい理由もそえて、大いに語ってくださいね」
 見えないマイクまで突き出して、ノリノリの記者一名。
 紙上で晒し者になる未来からは、逃れようがないらしい。大きく息を吐いて、私は覚悟を決めた。
「……私は……薔薇さまたちの中で……」


 記者の巧妙な聞き取りと私の開き直りで、取材は実にスムーズに運んだ。
 卒業生の署名入りで掲載された前代未聞の記事は、私の願いも空しくかなりの反響を呼んでしまったことを言い添えておこう。

 山百合会マニアな妹のこと、お姉さまはやっぱり少し怒っていたんじゃないだろうか。


 私がいったい何と答えたか?
 それは、リリアンかわら版のバックナンバーを見れば分かります。新聞部の部室に保存されていますから、ご自由にどうぞ。
 ……出来れば見ないでほしいけど。










目次へ



inserted by FC2 system