空中庭園



 売れ残りのケーキに鳥のもも肉。シャンパンのコルク、クラッカーから飛び出した原色の紙テープ。
 クリスマスイブのカケラたちをそっと跨いで、私はベランダへと続く窓を開けた。お姉さまの家に入ったのは初めてだから勝手も分からないが、カーテンを開ければ月明かりが十分に足元を照らしてくれる。
 ソファに身を横たえる二人を冷気の餌食にするには忍びなく、私はベランダに出ると慌てて窓を閉じた。風雨にさらされ色あせたスリッパに足を入れ、手すりにしがみつく。高層マンションから見下ろす光景はなかなか新鮮だ。
 深夜だというのに、家の明かりは少なくない。今日が特別な日だからなのか、それともこれがこの街の日常なのか。人工の光で満たされた夜景を毛嫌いしてきた私には、どちらとも言えない。

「こんな夜に外に居たら、風邪引くわよ」

 閉めたばかりの窓が再び開き、また閉じられる。
 蓉子の友人思いは、言葉とその字面の意味にだけ表れたのではない。お姉さまから借りた私のシャツの裾をしっかり掴んだ掌からも滲み出る。

「心配しないで。飛び降りるつもりなんか無いから」

 視線を眼下の暗闇に落としながら、私は本心をさらけ出す。
 ほんの数時間前までなら真っ赤な嘘だったろうけれど。
「……そう」
 それでもなお手を離さない蓉子に、私は苦笑しながら振り返る。
「私を信じられないのは仕方ないけど、白薔薇さまなら信じられるでしょ。お姉さまが私を放っているんだから、今の私は大丈夫なのよ。だから安心して寝て……」
 まくれた裾に視線まで引きずられ、カーディガンから覗く光が目にとまる。

 ……?

「そ……それ……」
「ん? ……あ」
 私の視線の先に気づいた蓉子。いつも泰然自若の彼女には珍しく、慌てて右手を下ろし黒い裾にそれを隠す。それは、右手に着けたものが只のアクセサリーなどではないと雄弁に物語る。
「それ、祥子の」
「…………ちょっと預かっているだけよ」
「そんなもの預かるどんな事情があるのよっ!」
「……」
 無言でうつむく蓉子を見て、全てを察した。

 祥子がこの上なく慕う姉からロザリオを取り上げられたのは、私のせいなんだ。


 少し説明が必要かもしれない。
 リリアン女学園で姉妹の契りを結ぶ際に授受するロザリオには、二つのタイプがある。一つは姉妹が誕生する度に新しく購入されるもの。そしてもう一つは、姉から妹、そしてさらにその妹へと代々受け継がれていくものだ。
 蓉子から祥子へ渡されたロザリオは後者にあたる。
 後者の場合、姉と妹の間にロザリオは一つしか存在しない。そしてその一つは、常に妹が持つはずなのだ。
 祥子が蓉子にロザリオを返上する確率は、小数点以下をいくつ調べてもゼロだろう。
 だとしたら、それが蓉子の手の中にある理由はひとつだけ。

 姉が妹のロザリオを取り上げたんだ。


「見くびらないで。私がそんなことを望むとでも思っているの?」
「そんなことって、いったい何のこと?」
 私が考えを巡らせる数秒間のうちに、多少はいつもの自分を取り戻したらしい。
 それでも右手首は、流れ落ちた裾に覆い隠されたまま。
「私は栞を失った。永久に失った。それはきっと、賢いあなたの予想どおりだったんでしょう。でもね、同情で妹とのお別れごっこされたって、私が喜ぶわけないじゃない!」
「……同情じゃないわ。もっと言えば、あなたのためですらない」
「他にどんな理由があれば姉妹の縁切りなんて考えるわけ? いい加減なこと言わな……」
「今日消えてしまうかもしれない姉の呪縛を、祥子に残したくなかっただけ」
 学園行事の日程を説明するような口調で、とんでもない言葉が聞こえてきた。
「あなたは今日、莫迦なことを考えたでしょう。何の計画も後ろだてもなく、子供二人で逃避行なんて」
「……悪かったわね」
 脊髄反射で悪態を返す私に向けられた目は、限りなく優しい。
「正直言ってね、彼女があなたについて行くかどうかは分からないと思った。そう簡単に思い切れることではないもの。ただ確実だと思ったのは、一度旅立ってしまえば、聖は決して学校に戻らないということ」
「どうしてよ。お金も尽きてどうにもならなくなって、親やあんたに泣きついて来るかも知れない」
「それをするには、逃亡者のプライドは高すぎる」
「……バカな癖にプライドだけは高いわけね、そいつは。サイテーだ」
 そんな先のことを考えていたわけではないけれど。私については私より詳しい蓉子のことだ、きっと当たっているのだろう。
「だから、私は祥子と姉妹の縁を切ったのよ」
「だから……って、全然話が繋がってないじゃない」
「繋がってるわ。それは、私があなたになれる最初で最後のチャンスだったから」
「……」
「あなたが消えても、きっと私は上手くやっていけたと思う。涙の一つも零して見せて、自分の無力を嘆くフリをして、ゆっくりゆっくり忘却の中に佐藤聖を沈めていく。山百合会は不真面目な候補者に代わる新たな役員を迎えて、前代未聞のスキャンダルを乗り越える。卒業の日に後悔のひとつも妹たちに話してお涙頂戴は完璧ね」
「充分でしょ。むしろそこまで長く憶えてやってるなんて、バカな友達には過ぎた扱いよ」
 まったくの本音だったのだが、蓉子は軽く首を振っただけ。

「その友達が許しても、未来の私が許しても、今の私が許せない」

 過去の自分に恥じることのない自分を。
 なんて果てしない目標なんだろう。
 きっとそれは、今の蓉子のような瞳の持ち主にしか到達できない高みなんだ。
「私は賭けをしたの。あなたが学校から――薔薇の館から消えてしまったら、私も消えてしまおうって」
「今までと大して変わらないでしょうが。ろくに寄りつきもしなかった人間がいなくなったって」
「いつか来るかもしれない不在と、永遠に来ない不在とは違うのよ」
「……」
「だから別に、あなたが気に病むことは何もない。競馬に負けるのは自分のせいよ。馬のせいにする人は居ないでしょう」
「その馬は勝ったのかな、負けたのかな」
「さあ」
 私と蓉子は、二人でベランダの手すりに寄りかかった。気づけば、街の灯りがまた少し減っている。


 ――百歩譲って『賭け』を決めたとしても、それは私の行く末を見届けてからで良かったはず。妹のロザリオを奪い返すなんて思い切ったことは後回しにすれば良かった。
 そんなことを聞く必要はない。それだって『今の蓉子が許せないこと』のひとつなんだろうから。
「祥子とはどうするの?」
 だから私は沈黙の後に、これまでのことではなく、これからのことを聞いた。
「そうね……床に頭こすりつけたら許してくれるかしら?」
「さあ」
 冷たい返事だったけど、それが本心だった。あの気難しいお姫様の心は読みにくい。ましてや薔薇の館に出入りすることすら少なかった私には尚更だ。
「久しぶりに持ったけど、ロザリオって重いのね」
 自身の右手首を見つめ、蓉子が呟く。
「そりゃあ祥子の怨念が籠もっているでしょうし」
「あの子は悪霊?」
「覚悟しておいた方がいいね。そう簡単に許してもらえないかも」
 私は祥子に、昨日のことを全て話そう。祥子がロザリオを失ったのは、蓉子のせいでも祥子のせいでも無いことを信じてもらおう。平手の一発で済めば安いもの。

 それは、今まで好き勝手して迷惑ばかり掛けてきた私の、薔薇の館での初仕事だ。







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