ウチの友達はウエイトレス



「毎日あっついなあ……。こう暑いと喫茶店も儲かるんやない?」
 ドアに取り付けられた鈴の音が鳴り終わらないうちに、カウンター席に座って薄青のハンカチを取り出す彼女。赤いラインで彩られた布巾でお客様が立たれた後のテーブルを拭きながら、私はその姿を窺う。
 身内ゆえの安心感か、学校で見るときよりも緩んだ表情に見える。水色のハーフパンツから、季節に似合わない白い膝が顔を出している。
「どうしてだい? うちはかき氷を出したりしないよ?」
「クーラーあたりに来るお客さんが増えるかなーて」
 ウッドパネルに包まれた、年代物の据え置き型クーラーを指さして答える彼女。落ち着いた雰囲気を作るには不自然なほど濃い茶色をしたそれも、この古びた喫茶店が長い時間を掛けて咀嚼した結果、何の違和感なくそこに鎮座している。
「うーん……大きい声じゃ言えないけど、確かに長っ尻のお客さんは増えるかなあ」
「……それじゃ売り上げには繋がらんか」
「心配しなくても、細々とやっていけるくらいにお客さんは来てくれてるよ」
「それじゃ困るんよ。アルバイトを一人雇い続けても大丈夫なくらいやないと」
「失礼だなあ」
 かなり口の悪い『姪っ子』にも、さほど怒った風でもなく応じるマスター。大らかな方だから、これくらいのやり取りは日常茶飯事のよう。
「ま、先のことは分からないけど、当分は大丈夫だよ。刹那ちゃんはよく働いてくれるし、出来るだけ長く居てもらいたいくらいだ」
「バイト代の踏み倒しも……」
「信頼ないんだなあ。ちょっとショックだよ」
 ちっともショックを受けたように見えない口調で笑うと、マスターはテーブル席に掌を向けた。
 彼女が落ち着くべき席も注文も、ひと夏でしっかり把握されていることだろう。その常連客さんも、素直にカウンター席から立ち上がる。
 空いたカップを二つお盆に載せた私に気づき、こちらを向いた彼女。首筋からは、あれほど浮き出ていた汗が消えていた。クーラー氏が老体に鞭打って働いた結果だ。

「がんばっとるなあ」
「……はい」
 真昼にクラスメイトと会ったときの挨拶というのは、意外に難しい。普段は朝の『おはよう』しか使わないから。『こんにちは』という日本語には、ずいぶん遠い関係の間柄でしか使われないイメージがある。
 彼女の場合は、部活でよく使っているであろう言葉をよく用いる。
 それまで同じ教室で生活していたというのに、こんな些細なことを知ったのもこの二週間のうちのこと。
「その服もだんだん板に着いてきたし」
「からかわないでください……和泉さん」



 クーラーより更に時代がかった、正真正銘の骨董品であろう掛け時計が午後の四時を告げた。カウンター席の端には、近所の老人が座って高校野球の中継を見ていた。
 彼女はいつも、店が暇になるこの時間にやってくる。だから、白い指先で窓際へ押しやられた『予約席』の小さな札も、他のお客さまから席を守るという役目を果たしたことはほとんど無い。他にも席はいくらでも空いているから。
 店の中でカウンターと対角線に位置する、もっとも端のテーブル席。その壁際に腰を下ろし、ウエイトレスというより『女給』といった方がしっくりくる衣装に身を包んだ私を見上げた。
「おじさんもああ言うてるし、ホンマに夏休みが終わっても続けたらええのに」
「それは流石に……お店にも迷惑でしょうし」
「そんなことないて」
「いえ……こういう仕事は初めてなので、迷惑ばかり掛けていて」
 『仕事』なら、これまでもしていたのだが。もっと荒々しく、自らの焦りと苛立ちをぶつけられる肉体労働なら。
「そんなん仕方ないよ。最初は誰かてそうやし」
「仕方ないでは済まされません。大事なお店の看板に泥を塗ってはいけませんから」
「そんな風に真面目に考えてくれる子だから、刹那ちゃんに居てほしいんだけどね」
 いつの間にか近づいていたマスターが、和泉さんのためのアールグレイをソーサーに載せて立っていた。
「あ……すみません。それを運ぶのは私の役目でした」
 カウンターの中の様子に気づかないとは、従業員として失格だろう。私は深く頭を垂れた。
「いやいや、そんなに恐縮しないで……」
「そそ、このおじさん存在感ないやろ、こうやって人の背後を取るのが趣味なんやから。昔はようびっくりさせられたわ」
「非道いなあ、僕がいつそんなことをしたんだい?」
「五歳の夏休みと小二の冬休み、小五のゴールデンウイーク……」
「亜子のいい加減な言葉は話半分で聞いてね、刹那ちゃん」
「は……」
 叔父と姪の板挟みで否定も肯定も出来ず、間抜けな声を漏らす私。それを見て小さく笑うと、マスターはカウンターの方へ戻っていった。なかなかその言動に慣れることのできない、少し不思議な人だ。
「おじさんの言うことこそ話半分で聞いてな。落ち着いとるんは見かけだけで、けっこう子供っぽいとこあるから」
 そういう和泉さんの真剣な表情がおかしくて、申し訳ないけれど吹き出してしまった。
「あ、真面目な話やのに……」
「ごめんなさい。信じてますよ」
「そう? ならええけど……」
 マスターには不義理になるけれど、ここは和泉さんの味方になることにした。


「先輩というのは三年生ですよね?」
「失礼な。先輩は二年で留年するほどアホやないで」
「そうではなくて……もうそろそろ、三年生は部活から引退する時期ではないかと思ったんですが」
 和泉さんの身振り手振りを交えた語りで、すっかり知り合いになった気になってしまう人について、私はふと思いついたことを聞いてみた。実際には顔すら知らない相手なのだが。
「ああ、先輩はよその高校でサッカー続けるて決めてるから。他の三年生は引退してしもたけど、夏休みも一人だけ練習に出てきとるんよ」
「熱心なんですね」
「うん。サッカーが好きで好きで仕方ないんやろね」
 そのせいで他のことが見えていないんだろう。たとえば、自分を見つめる可愛いマネージャーの、ルビーのように澄んだ瞳とか。
 心ここに有らずといった風情で宙を見つめる和泉さんには悪いけれど、話を聞く限りでは、なかなか報われそうにないと思えてしまう。

 考えてみると、私たちの関係はかなり不思議なものだ。同じクラスで一年半も過ごしながら、二週間前まで会話を交わしたことすらほとんど無かった。もちろん授業以外で遊んだことなど有るはずもない。よって立つ共通の基盤を持たない二人の会話は、自然と話し手と聞き手に別れるしかない。今日は私が聞き手になっている。

 彼女が私にこの喫茶店を紹介してくれたのも、毎日のようにここに足を運んでくれるのも、あるいはクラスの保健委員の仕事に似たものだったかもしれない。
 知り合っていたけれど、本当の意味で出会っていなかった私たちの、あの最初の日。彼女の目に映った私は、ひどくみっともなくて放っておけなかったんだろう。
 そう考えるのが自然なのに、それで落ち着くことの出来ない私の心が不思議だ。


「ウチ、そろそろ帰るわ」
 二組目のお客さまにコーヒーを運び終えた私に、立ち上がった和泉さんが声を掛けた。ピンクのちいさな鞄を肩に掛け、小さく伸びをする。時計が一時間に一度の仕事を終える頃に、いつも彼女は立ち上がる。この店は軽食も提供するから、仕事帰りの方たちで混み合う時間に差し掛かるからだ。
「ありがとうございます。今日も来ていただいて」
「はは、気にせんといて。叔父さんは正月のお年玉ランキングでいつも上位ランクインやからね。少しは還元せんと」
「そうかい? じゃあ来年はお年玉代わりに、この店の飲み物券を配ろうかな」
 こちらも一息ついたマスターが、カウンター越しに笑う。
「そ、それはちょっと……」
「ま、それは半分冗談として」
「半分て!?」
「いま、新しい味のスコーンを研究中なんだよ。明日あたり、刹那ちゃんと一緒に実験台になってくれないかな」
「ホンマ? 嬉しいわ」
「私も……マスターが焼くものはどれも美味しいですから」
「そうかい。じゃ、また明日ね」
「はーい」
「では、また」
「うん。桜咲さんはもう少しやね。がんばってな」
「はい」
 またも『がんばって』を使うと、良くしなったバネのように、和泉さんの身体がドアへ向かって弾ける。ガラスのドアをくぐりぬけ、赤味を帯びた光の中へ飛び出し。
 すぐに戻ってきた。
「あづい……」
「いつも出ているグラウンドは、もっと暑いでしょう」
「それとこれとは別や……」
 クーラーの前で溶け出しそうな彼女を見て、マスターと私の笑いが共振した。


 今度こそ、本当に彼女が帰ってしまってから。
 綺麗に飲み干された紅茶のカップを片付け、最後に一仕事。

 薄いプラスチックは角が欠け、その隙間からコーヒーらしい褐色の染みが浸食している。マスターの達筆で書かれた『予約席』の札を、私は大事にカウンターの奥へ戻した。

 明日も私は、この札をここに置く。










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