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昔から嘘が上手だった。 寺で育ちながら、別の宗教への信仰を抱き続けていた。 カトリックの学校に通って丸四年も経とうというのに、生家の事情を隠し続けている。 だから。 呼吸をするように嘘をついてきた私にとって、お人好しのクラスメイトを騙すなんて呆れるほど簡単で。 あなたは知らない。 「だからさ、何かして欲しいとか。こんな風に学校を守っていって欲しいとか。そういうこと言われた?」 「遺言なんて。そんなこと言うような人じゃないわよ」 ――どれほど醜い嫉妬が私の心を満たしていたか。 「私、志摩子さんの気持ちを考えないで、白薔薇さまに甘えていたかもしれない」 「あら、嫌だ。そんなこと少しも思っていないわ。あのね、私は祐巳さんに感謝しているくらいなの」 ――どれほど凶暴な獣の尾を踏んでしまったのか。 あなたは知らない。 祥子さまは、またも無自覚に溜息をついた。 昨日に引き続き、祐巳さんは今日も会合に遅刻している。 しかし、昨日の遅刻の理由が蓉子さまであったと聞いたから、今日の遅刻についても露骨な怒りは表明できない。 「……やれやれ」 令さまは祥子さまの心中を全て承知で、淡々と書類に目を通している。 何を言っても逆効果になると悟っているんだろう。 卒業目前に蓉子さまが祐巳さんを呼んだのだとしたら、その理由はただひとつ。祥子さまのことを祐巳さんに託したのだ。 生徒会のことなら、次代の正規役員である祥子さまに伝えれば良い。 だから祐巳さんは、祥子さまには託せないことを託されたことになる。 「お茶……お入れしましょうか?」 「……ありがとう。でも結構よ」 「そうですか……」 苛立ちをまるで隠し切れていない声音にはじき飛ばされた由乃さん。空のままのトレイを流し台に置き、ゆっくり部屋に戻ってくる。令さまは由乃さんにだけ見えるように首を横に二度三度と振った。 『放っておきなさい』というメッセージは、由乃さんに過不足なく伝わったようだ。音もなく椅子を引いて令さまの隣に座り、書類仕事の手伝いに戻った。 祥子さまのことを、祥子さま本人に託せるはずもない。 祐巳さんは蓉子さまの言葉をひとつも漏らさなかった。けれど『祥子さまに漏らさなかった』ことこそが、雄弁にその内容を物語っていた。 蓉子さまは、最後の最後まで祥子さまのことを心配していた。 それを『嬉しい』ではなく『姉を心配させた自分が情けない』と感じるのが祥子さまだ。だから今日の彼女の怒りは、外ではなく内に向いている。 「祥子さま」 「……何?」 「外の空気を吸いに出かけませんか」 「何を言っているの。今は仕事中でしょう」 「先ほどから、一枚も紙がめくられていませんが」 「……」 数字のチェックを示す鉛筆の跡が何重にも刻まれた予算書を見て、言葉を失う祥子さま。 「空気が乾燥していますから、私も喉が痛いんです。ほんの少し、休憩にしましょう」 蒸気をあげる古風な石油ストーブに目を遣りながら、私は告げる。令さまは『そんなことじゃ解決しないよ』と視線で語っていたが、気づかないふりをする。 「さあ」 「ちょ、ちょっと、志摩子……」 祥子さまの手を引き、半ば無理矢理に席を立たせる。 「令さま、由乃さん、申し訳ありません。私たち、しばらく席を外しますね」 「だから私は、同意した覚えはないわ」 いつになく積極的な私に驚いてか、それとも他人に逆らう気力もないのか。抗議の声は驚くほど小さかった。 「志摩子の気が済むようにしたら良いよ。後は私たちがやっとくから」 最後の障害と思われた令さまも、私の出しゃばりを由乃さんのお茶汲みと同種のお節介だと判断したらしい。鷹揚に頷いてみせた。 残念ながら。由乃さんのお節介と私のお節介とでは、目指す終着点が百八十度異なるのだけれど。 「どこに行くの?」 「静かな場所を知っています。休憩しましょう」 「……」 「それに、少し気詰まりのようでしたから」 「そんなこと……」 ないと言えない姿だったのは、十分に自覚があるようだ。 祥子さまは、心に『厳しさ』という牙を持っている。普段はそれが、自己にも他者にも同じ鋭さで光っていることでバランスを保っている。 その二本の牙が、いずれも自分に向かってきたらどうなるか。 祥子さまをもっとも傷つけるのは、いつも祥子さま自身だ。 「こちらにどうぞ」 「え? ああ、ありがとう」 私が掌で示した中庭のベンチに祥子さまは白いハンカチを敷いて座る。私もそれに続いた。 「この場所、好きなんです」 校舎の窓を脇目で捉えながら、私は呟く。 「……意外ね。もう少し人気のない所が好みかと思ったけれど」 「静かですよ。グラウンドからも体育館からも離れていますから、放課後はあまり人が来ません」 ずいぶん暖かくなったとはいえ、まだ三月半ば。日も傾いてきた肌寒い中庭には人影も無い。 「校舎からは随分近いけれど……」 「そうですね。だから私は、ここが好きなんです」 「え?」 「いちばん見たい人の居場所を、見ることが出来るから」 私の視線を数秒遅れでついてきた祥子さまは、校舎の二階、中程に位置する窓にたどり着く。 「あれは……」 「ここからだと、夕日に邪魔されずにお姉さまの教室を見られるんです。もっともお姉さまは大抵真っ先に教室を出てしまわれるから、ほとんど無人でしたけど」 「でも……今日はいらっしゃるわね」 祥子さまは、窓の奥にお姉さまを見つけた。自分の席に語りかけるかのように俯く姿を。 「意外でした……」 また嘘をついた。 今日、お姉さまが学校にいらっしゃっているのは知っていた。昼休みに教室の窓から姿が見えたからだ。 そして、卒業式の前日にお姉さまが一人で別れを告げる場所は教室しかないのだと、私には分かっていた。そこは、お姉さまが憎み、憧れ、逃げ、戦った場所だった。良い思い出の多い薔薇の館とは、費やした想いの絶対量が違う。 もちろん時刻の問題もあるから、今この瞬間にお姉さまが居るとは確信できなかった。ただ、生徒が残る時間帯よりも確率は高いだろうとは考えた。 そしてもう一つ、私が予想していたことがある。 「祐巳……」 特徴的なシルエットの髪型を持つ彼女が、教室に浮き出るように現れた。 祥子さまの目は、もう其処に貼り付いて離れない。 一定の確率で、お姉さまが自身の教室に居ることを予想していた。 その理由は、先に述べたとおり。 一定の確率で、そこに祐巳さんが来ることを予想していた。 その理由は、祐巳さんが山百合会の会合を脇に追いやってまで卒業式前日に言葉を交わしたいであろう人物は、他にいないだろうから。 さらに。 一定の確率で、お姉さまと祐巳さんが『お別れ』の儀式をすることを予想していた。 「……っ!」 もはや私の手を離れたマリオネットは、人形遣いの台本どおり、その窓から目を離さなかった。 数分の会話の後に、妹が別の上級生の顔に唇を寄せるまで。 上級生が妹を背後から抱きしめ、その髪に顔をうずめるまで。 私が直接に手を下したのは、祥子さまをここに連れてきたことだけ。 それも、首に縄をつけて引きずった訳ではない。彼女にはいくらでも拒否権があったし、今でも私は祥子さまに指一本触れてはいない。 窓の中の光景も、私が手を下して生じた訳ではない。 私はただ予想しただけ。その予想の中でもこれは最悪の結果だったけれど、それは私の咎ではない。 「死んでも構わない」という意思のもとに人を寒空に放置すれば、『未必の故意』があったとみなされ殺人の罪に問われる。 私が今やっていることも『未必の故意』にあたるのだろうか。 蓉子さまがいつか御希望どおり検事になったなら、聞いてみたいものだ。 教室から祐巳さまが立ち去って、長いようで短い沈黙の後に。 「そろそろ行きましょうか。令たちにばかり仕事をさせては悪いものね」 祥子さまは立ち上がった。何も無かったかのようなふりをして。 「そう……ですね」 私は立ち上がった。何も無かったかのように取り繕い、それに失敗したふりをして。 いや。 私が今日発した言葉、今日浮かべた表情のうち、今この瞬間のそれだけが真実だったのかもしれない。 祥子さまは、今後も変化を見せないだろう。 お姉さまが祐巳さんを気に入っていたことは知っているし、自分に出来ないやり方で祐巳さんを導いていたことを知っている。 ましてや卒業式前日のこと。ちょっと特別なことをしたって、二人を責めるほどのことではない。そう自分に言い聞かせるのだろう。 そして祐巳さんと、以前と変わらぬ清らかな姉妹関係を続ける。 ただ。どれほど澄んだ川の流れでも、地下に流れる伏流水が汚染されていれば、やがてそれは下流全てを汚し尽くす。僅かな毒素であっても、決して消えることはない。 それはいつか、些細な行き違いの拍子に地面から噴出し、祥子さまと祐巳さんを襲う劇薬となる。 例えば、新入生が二人の間に割り込むような素振りを見せたり。 例えば、家庭の事情でしばらく会話をできなかったり。 例えば、祐巳さんが大学に残った元白薔薇さまに助けを求めたり。 例えば、祐巳さんが大切にしていた何かをなくして精神的に不安定になったり。 そんな時に、二人の溝を広げる材料になるかもしれない。 でも、これはただの例え話。 祥子さまと祐巳さんは強い絆で結ばれている。そんな偶然が続くなんて、まず考えられないこと。 誰かの意図が働かない限り、そんな不幸な偶然が積み重なるはずもない。 今日のように、誰かの、意図が働かなければ。 |
あとがき |
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