ウイルスとワクチン



 ―― 笙子 ――


 クラブハウスの冬は寒い。

 もともと古い建物だから隙間風は入るし、日中は生徒が居ないから人の体温で温まることもない。火事の心配から、灯油を使った暖房器具の使用は厳禁だ。何とかお目こぼしをもらっている小さな電気ストーブでは、とても部屋全体に恩恵が及ばない。
 体育会系の部室棟も事情は同じだけれど、あちらは単なる物置かつ更衣室。外で活動する部活は大変だが、リリアンの体育館には暖房設備があって、クラブハウスよりよっぽど暖かい。頑健な体育会系と軟弱な文化系、という先入観とは逆の状況にあるのだ。
 そんなこんなで体育会系と文化系の路線対立に至りそうな冬の寒さも、ようやく遠のきはじめた3月のこと。春の訪れが冬眠中の幽霊部員たちまで目覚めさせたか、いつもより人の多い廊下を通り、私は写真部の扉を開いた。
「ごきげんよう」
 部室の中には、先客が一人だけ。
 窓際の席に座った蔦子さまが、首だけをこちらに向けてくれた。
「ごきげんよう。あ、卒業式の写真ですね」
 蔦子さまの机に並べられたのは、L版サイズの写真ばかり十数枚。
「そう。出来のチェックしてたのよ。大事なイベントの写真だから、下手なものは渡せないでしょ?」
 蔦子さまの腕なら失敗はほとんど無いと思うんだけど、初心者の私には分からない違いがあるらしい。私と話しながらも、すでに二枚の写真が机の端に重ねられた。
「昨日撮ったばかりなのに、もうそんな段階なんですか?」
「そりゃあもう。色んなひとから矢の催促だもの」
「なるほど。遠くに引っ越してしまう卒業生に渡すこともあるでしょうしね」
「でも、それを一番に見るのは私たち。これが写真部の特権ね」
「……」
 こんなとき、私は本当に蔦子さまが好きなんだなあと再確認する。
 『私たち』と言ってくれただけで、自分で呆れちゃうくらい嬉しくなったりするときに。
「……笙子ちゃん?」
「でも、本当に綺麗な方たちでしたよね」
 ひとりで勝手に恥ずかしくなって勝手に照れ隠しをしたんだけど、そのために口にした言葉は嘘じゃない。蔦子さまの細い指は、卒業式の後に現れた三人の写真にとまっていたから。
「そっか、笙子ちゃんは初めて会ったんだっけ?」
「そうです」
 蓉子さま。聖さま。江利子さま。話題にしているのはもちろん、三人の先代――四月になれば先々代になってしまうけど――薔薇さまのこと。
 三人と入れ替わりで入学してきた私は初対面も同然だった。
 聖さまは中等部からフライング参加した去年のバレンタイン企画で見かけたことがあったし、江利子さまはその後で言葉も交わしたことがあったけど、二人ともそれに気づくことはなかった。『会った』と言うより『(一方的に)見た』だし、当然といえば当然だ。
 けれど、三人とも容姿だけでなく言動もそれぞれ素敵だったから、私は一年以上遅れてファンになってしまった。
「すっかり馴染んでたねー、笙子ちゃん」
「はい。皆さんとっても優しかったですし。蔦子さまはあの方たちの写真もたくさん撮ったんですよね。羨ましいです」
「ふざけ半分でいじめられたこともあったけどね」
「えー? 本当ですか?」
 ちょっと信じられなかったけど、苦笑いを浮かべるその表情は真実味があった。
 そんなことすら私は羨ましかった。それは蔦子さまが先代の薔薇さまたちと一緒に学園生活を送った証だから。
 そんな私を見て、蔦子さまは口の端に笑みを浮かべてこう言った。
「そうね。そんなに良い被写体だと思ったのなら、もうちょっとお近づきになってみる?」







 ―― 聖 ――


「うーん」
「どうかした?」
 四限目の授業を終えた帰り道。急に立ち止まった私に、加東さんが振り向く。
「あー、いや。ちょっとね」
 そう言って私は、黒のブックバンドで束ねた三冊の辞書や参考書を肩にかつぐ姿勢に変えた。
 この書籍運搬具を買ったのは、大学の入学式前日。加東さんからは「本を雨に濡らすなんて」と不評だが、私はけっこう気に入っている。これぞザ・大学生ってなもんだ。ただ流行に数十年乗り遅れているだけで。
「はっきりしないわね。何なのよ一体」
「気づいてないか。ま、私が高校の三年間でアンテナを鍛えられ過ぎたからなー」
「……先に行くわよ」
 理解する努力を放棄したらしい彼女は、あっさり前に向き直り、肩越しに手をヒラヒラさせつつ去っていく。
 私に対する知的好奇心と優しさが足りないと思うんだ、最近の加東さんは。
「じゃ、後で寄るからー」
「はいはい」
 ただまあ、今日のところは加東さんの薄情ぶりが助かる。彼女の姿が校舎の角で消えるのを待って、私は九十度右に向き直る。さっき捉えた感覚を頼りに場所を推定して、植え込みの切れ目からその奥に回り込んだ。
 案の定。そこには二人の女子高生が居た。
「はい、ごきげんよう」
「ごっ、ごごごきげんようっ!」
「見つかっちゃいましたね、やっぱり」
 バネ仕掛けの人形のように跳ね上がるやお辞儀を二度三度と繰り返す子に、悪びれた風もなく人差し指で頭を掻きながら立ち上がる子。彼女たちの共通項としては、リリアン女学園高等部の制服よりも、その手に持った年代物のカメラを第一に挙げるべきだろう。
 つい先日の高等部卒業式で会った、カメラちゃんとカメラちゃん2号だ。
「大学部の敷地にまで侵入しちゃうのは、あんまり感心しないなあ」
「あ、す、すみませんっ!」
「いやー、久しぶりに麗しいご尊顔を撮影したいなーなんて」
 口にしたセリフも好対照。違うタイプの方が仲良くなるってのは自分の経験でも分かっているけど、この二人の性格もかなり違う。
「あ、聖さまのことを言い出したのは私なんですっ! 悪いのは私で……」
「ちなみに入れ知恵したのは私です」
「いえそれは……」
「はい、そこまで」
 両手をパンパンと打ち、エンドレスで続きそうな責任引き受け合戦を止める。美しい自己犠牲の精神も、行き過ぎれば『どちらがお勘定を払うか』で揉め続ける喫茶店のおばちゃん連と一緒で面倒くさい。
「別に本気で怒ってるわけじゃないって。この大学、高等部の生徒が入ってきても黙認してるっぽいし」
「そうなんですか……」
 文字どおり胸を撫で下ろす一年生と、それを見てにんまり笑う二年生。隠し撮りのベテランたるカメラちゃんがリリアン女子大の状況を知らない筈がないから、後輩で遊んでいただけのようだ。なかなか良い性格をしている。
「とはいえ、無断で撮影された私がどう思うかは別の話だよね」
「え……」
 安堵も束の間、少し怯えた顔を見せる。カメラちゃんと違って、その子分はポーカーフェイスに程遠い。祐巳ちゃんの百面相には及ばないけど、八十五面相くらいはやってそう。
「どうしたら許してくれます?」
 殊勝な言葉とは裏腹に、大変なことを言い出されるとは微塵も思っていない表情のカメラちゃん。これくらい図太くないと、隠し撮りなんてやっていけないだろう。
「ミルクホール」
「…………え?」
「高等部を卒業してから久しく食べてないのよね。そこのカフェテラスで待ってるから、ちょっと買ってきてくれる?」
 ポケットの財布から紙幣を一枚取り出して、私はそれをカメラちゃん二号に差し出した。







 ―― 蔦子 ――


「じゃ、行こっか」
 受け取った千円札を握りしめて駆け出す笙子ちゃんを見送ると、聖さまはレンガもどきのタイルで身を包んだカフェテラスに向かって歩き出した。
「……お話しになりたいことがあるなら、早くしないと笙子ちゃん帰って来ちゃいますよ」
「どうして話があるなんて思ったの?」
「私だけを引き止めたじゃないですか」
 笙子ちゃんと一緒に高等部の敷地へ戻ろうとした私の肩を無言で掴んでおいて、今さら何を言うんだか。
「ま、取りあえず座ってから座ってから」
 ガラス扉の前で招き猫ポーズの手招き。ふざけているけれど、歩きながら話すのは断固拒否するらしい。やむなく私は、勝手の分からない大学のカフェテラスへ導かれるまま入り込む。
 昼休憩の混雑に対応するべく作られた建物は思ったよりも広い。午後の中途半端な時間に多少の学生がたむろするくらいでは、閑散とした印象をぬぐえない。その中に、高等部の制服姿もチラホラと見える。部活の先輩や『元お姉さま』を訪ねてきたのだろうか。確かに大学では、高等部生徒の存在が黙認されているようだった。
 聖さまはテーブルと椅子の森をすり抜け、4人掛けの席を確保する。私はその目の前の席に遅れて座った。時代遅れのブックバンドを隣の椅子に置くと、聖さまは背もたれに寄りかかって伸びをした。
「あの子に食べるものを頼んでなかったら、何か注文しても良かったんだけどね。ここの料理は結構おいしいよ。そのぶん高等部の学食より値も張るけど」
「たぶん何をいただいても、控えてる話が気になってよく味わえないと思います」
「せっかちだなあ」
「早くしないと笙子ちゃんが来ちゃいますよ」
 聖さまが隠し撮りくらいで本気になって怒るはずがない。それなら高等部の頃に数え切れないくらい怒られているはず。だから『私への話』というのは、お説教などではない。
 そうなると、話の内容なんて想像もつかない。なのに、私はどうしてこんなに苛立っているんだろう。
「笙子ちゃん、妹じゃないんだよね」
「……はい」
 本当のお姉さんは内藤克美さまですけど、という軽口が浮かんだけれど黙っておく。今ひとつ面白みが足りないし、何より聖さまが同学年の優等生を覚えているとは思えなかった。
「部活も同じなんでしょ? 妹にしないんだ?」
「……姉妹になるだけが全てじゃないですから」
「しかも、そこそこ長い付き合い」
「どうして分かるんですか」
「そのセリフ、言い慣れた感じがしたから」
 笙子ちゃんを妹にしない理由を一刀両断にされたのは初めてだ。
 ――姉妹になるだけが全てじゃない。
 誰にも否定できない、完璧な言い訳だったはずなのに。
「……」
「さっさと妹にしちゃいなさい」
 口ごもる私にあわせて、聖さまも顔から笑みを揉み消して続ける。
「ただ仲の良い部活の後輩、じゃ駄目ですか」
「駄目」
 泣き言めいた私の言葉は、ばっさり切り捨てられた。
「リリアンに姉妹制度が存在する以上、『姉妹にならない』ということに意味が生じちゃうからね」
 真面目な表情は三十秒と保たなかった。話の途中で聖さまはいつもの笑顔に戻る。
「私、高校がちょっとだけ嫌いになりました」
「姉妹制度って、不活性化ウイルスを注射するワクチンだから。年頃の女ばかり集めた学園で、変な風邪が流行らないように」
 上級生と下級生が一対一で導き導かれる関係を持つ、リリアン独自のシステム。
 この姉妹制度がウイルスを殺して作ったワクチンだというなら、殺す前のウイルスがもたらす病気とは何なのか。
 聞くまでもないことだ。
 学年の関係で直接に見聞きしたわけじゃないけど、新聞部に出入りしていれば噂くらいは嫌でも耳にする。
 ワクチンを絶って風邪をこじらせたのが、かつての聖さまと、久保栞という人だった。
 言いたいことはよく分かる。けれど。

「手遅れです。とっくに肺炎にかかってますよ」
 そう告げただけで、雄弁だった聖さまが押し黙る。
 それから笙子ちゃんの姿をカフェテラスの入口に見つけるまで、ついに一言も喋らなかった。



「お待たせしましたっ」
 慣れない場所におどおどしながら、両手に牛乳瓶とパンの袋を抱えて近づいてくる彼女。良く出来た姉と比較され続けたせいか、笙子ちゃんはいつも『誰かに怒られるんじゃないかな』という心配をしているところがある。
 そのくせ好奇心旺盛で何でもやってみたがるところは、彼女の長所の一つだ。
「お疲れさま」
「いやーありがとありがと。じゃーみんなでおやつの時間にしよっか」
「笙子ちゃん……それは聖さまの分だけで良かったのに……」
「え? そうなんですか?」
 テーブルに二袋置かれたマスタードタラモサンドを見て、私はため息をつく。
 笙子ちゃんは甘党だから、一つは私が食べることになりそうだ。



 笙子ちゃんを先にクラブハウスへ向かわせて、私は見送りに来た聖さまに向き直る。
 まだ視界に入っている笙子ちゃんに聞こえないよう、声を落とした。
「一つだけ仕返しして良いですか?」
「別に恨まれる覚えはないけどなあ」
 とぼける聖さまの右手で、ブックバンドに結ばれた参考書がふらふら揺れる。
「恨みは別にありませんよ。ただ、言われっぱなしじゃイヤですから」
「はいはい。いったい何ですかね」
 私は目一杯の笑顔で、こう告げる。
「聖さま、私の名前を忘れてますね?」
「…………………………」
「やっぱり」
 ワンサイドゲームの終了間際に一矢報いた。
 どうりで昨日の卒業式でも『カメラちゃん』としか呼ばれないわけだ。
「正直言って意外です」
「いや、ごめんごめん。私、人の顔とか名前とか覚えられなくて」
 頭を指で掻きながら照れ笑い。こんな仕草も様になるのだから得な人だ。
「忘れられてたことじゃないですよ」
「へ?」
「名前も覚えてない私に、わざわざ忠告をしてくれたのが意外だったんです」
 後輩の遠慮会釈ない言葉に、むっとした顔を作ってみせる聖さま。
「人を冷血女みたいに言うね」
「聖さまは優しすぎるくらい優しいですよ。ただし、自分の身内だけに」
 私は三年生になってからの聖さましか知らないけれど、そのころの彼女は分け隔てなく生徒たちと接していた。三年間を同じクラスで過ごしたという同級生とも、初めて言葉を交わした見知らぬ一年生とも。
 あるときそれに気づいた私は、カメラを構える手が震えるほど驚いた。
 誰にでも明るく愛想良く振る舞うというのは、誰のことも見ていないということ。
 だから、聖さまが相手の人格を認識したうえで付き合っているのは、山百合会の面々しかいないと思っていた。
「でも、それなら意外じゃないよね。カメラちゃんは私の身内でしょ」
 だから、私のことを少しでも気に留めていてくれたのは、本当に意外だった。
 意外で、嬉しかった。
「名前も覚えていないけど?」
 でも感謝なんて口にしない。聖さまが今ここで望んでいるのは、きっとこんな憎まれ口。
 そんな気がした。
「名前も覚えていないけど、ね」
 見つめ合うこと数秒。
 ユニゾンする笑い声に、帰宅途中の大学生たちが怪訝そうな視線をくれた。



「あ」
「どうしたんですか?」
 聖さまが校門へ向かうのを見送り、私たちも部室に帰ろうとしたそのとき。
 漏らした小さな声を聞き漏らさず、待っていた笙子ちゃんが首を傾げる。
「忘れ物しちゃった」
 すっかり忘れていた。
 聖さまに、私の名前を教えるのを。
「え? じゃ、取りに戻りましょ……」
「いや、いい。聖さまに預けておくから」
「でも……」
「良いって良いって」
 不審そうな笙子ちゃんを押し切って、クラブハウスの廊下を歩く。

 あの後輩の名前が気になって眠れない、なんて人じゃないしね。
 しばらくは『カメラちゃん』を続けましょうか。


















あとがき


 聖と蔦子は相性悪いと思うのです。
 『嫌い』というより『苦手』かな。
 どちらも相手や状況に合わせて自分の言動を変えるタイプ。
 だから友達のお悩み相談が上手。

 ついでに、言葉を弄するというか、機転が利いて口が上手い人たち。
 彼女たちの台詞には、深読みを誘う言い回しが多いですね。
 どちらかが絡むと、「マリア様がみてる」の会話シーンは抜群に面白くなります。

 だからこの二人だけで会うと、どちらも落ち着かないのでは。合わせるべき相手も、口先でからかう相手も居なくて。



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