長き戦いのはじまり






 ゆっくり遠ざかる背中を見送って、今日の儀式は終わった。

 横を通り過ぎる卒業生と在校生との人並みに紛れても、周りより頭半分ほど抜け出した長身はしばらく目で追うことができた。
 右手を胸に当て、根性無しの心臓に珍しく感謝する。いつも肝心なときに言うことを聞かないのに、今日は無事お役目を終えてくれたから。

 いま隣を歩いていったクラスメイトの目元はかすかに赤かった。親しかった部活の先輩でも見送ったのだろうか。
 もっとも、そんな悲しい雰囲気は決して多数派じゃない。
 多くの卒業生が敷地内の高等部にそのまま進学するから、ちょっと足を伸ばせば簡単に会える。それにあと1年経てば、今の2年生もほとんどが高等部へ進学する。いったん別れた先輩たちとも、舞台を移して同じ学校の先輩に戻るわけだ。
 そんなこんなでリリアン女学園では、、中等部の卒業はさほど大きな節目ではない。すすり泣きより笑い声が学校を包んでいるのはそのためだ。感極まって泣いているのは保護者ばかり、なんて間の抜けた光景もよく見かける。

 それでも。
 さすがに今日ばかりは、令ちゃんと一緒に帰るのは遠慮したかった。
 在校生が卒業生と仲良く一緒に帰宅なんてしたら、卒業式の余韻も何もあったもんじゃない。いくら家が隣の従姉妹同士とはいえ。





 小等部に入学した直後のことだったろうか。
 いつも1年先に待っててくれている(1歳上なんだから当たり前だ)上級生の令ちゃんと話をしていたとき、通りかかったクラスメイトに聞かれた。
「由乃ちゃん、この子だれ?」と。
 私は答えた。
「令ちゃんだよ。私の……いとこなの」
「そうなんだ」
 彼女は令ちゃんに礼儀正しく自己紹介し、挨拶をして別れた。
 どうということもない一場面だったけれど、私はその時のことをよく覚えている。彼女の薄い反応を見て、そのとき私はこう思ったからだ。
 私と令ちゃんのことを理解してもらえなかった、と。

 一般的な小学生にとって『いとこ』とは年に数回会うかどうかの縁遠い親戚に過ぎないと知ったのは、その後のことだ。
 いっぽう私にとって『いとこ』とは、『かぞく』と『ともだち』を兼ねたくらい大きな存在だった。
 それからしばらく、同級生たちに令ちゃんのことを『お姉ちゃんみたいないとこ』と紹介していた。意地でも令ちゃんとの関係を過小に考えてほしくなかったんだろう。今から考えると他愛ない意地だけど、当時の私は必死だった。

 そんな私が高等部の姉妹制度に憧れたのは、当然の帰結でしょう?
 『姉妹のような関係』から、学校の中だけでは『のような』を取り除けるんだから。





 クラスは1年菊組。中等部からの顔見知りが多くて安心した。
 入学式当日に剣道部へ入部届を出した。
 部には高等部からの外部編入者が多い。
 などなど。

 それまでも頻繁に私の部屋に来ていた令ちゃん。
 部活で今までより忙しいはずなのに、高等部進学後にはその回数がいっそう増えた。学校で一緒に居られなくなった分を取り戻すように、私の部屋で新しい学園生活を描いてみせる。
 学校が別れてしまった私への気遣い8割、令ちゃん自身の寂しさ2割といったところだろうか。こっちにはお見通しだってのに気遣いの方をひた隠す令ちゃんは、相変わらず優しくて、相変わらず鈍感だ。
「そういえば今日、剣道部に珍しいお客さんが来たんだよ」
「お客さん? 遅れてきた見学者とか?」
「違う違う。黄薔薇のつぼみ」
「へえ」
 中等部でもおなじみ『リリアンかわら版』紙上の有名人が突然出てきて、少し驚いた。私は中等部でも山百合会への興味が薄い方だと思うけれど、それでも顔と名前くらいは覚えている。
「剣道部には知り合いもほとんど居ないらしいし、ずいぶん珍しいみたいだよ」
「ふーん……」
 令ちゃんにそれ以上の言葉を継ぐ情報の持ち合わせも無かったのか、その話はうやむやのうちに終わってしまったけれど。
 私には、令ちゃんの友人が入ったテニス部の話より、黄薔薇のつぼみのことが気になった。


 中等部で2年生に進級した頃から、令ちゃんは下級生に人気があった。中等部に姉妹制度は無いけれど、上級生に憧れる下級生という図式は普通にある。
 けれど、高等部でいう『妹』のポジションには常に私がいたから、ライバル不在の独走状態。私を差し置いて令ちゃんに近づく悪い虫はほとんどおらず、せいぜい遠巻きに見ているくらいのもの。
 そして令ちゃんは、遠巻きに見つめているくらいじゃ視線に気づきもしないくらいに鈍感なのだ。
 よって私は、遠慮無く令ちゃん独占権を行使できていた。

 その環境が既に崩れてしまっているのだと、私は今になって気づいた。
 上級生が、それまで縁のなかった部活にやってくる。
 4月半ばという時期から考えて、そこには相応しい理由が1つある。令ちゃんは気づいていないけれど。

 妹探し。


 これはひょっとして、私の初めてのライバルではなかろうか。





 その姿を確認し、私は木陰から中庭の細い道へ足を踏み出した。左手に引っ掛かった蜘蛛の巣と周囲から送られる好奇の目は気にせず、薔薇の館へ向かう彼女へ向かって駆け出す。
 既に敷地への不法侵入をしているとはいえ、高等部の建物の中にまで押しかけるのはさすがに難しい。運動不足――というか無運動――の身がたたって私の脚力はその辺の小学生にも劣ると思うけれど、なんとか彼女がドアにたどり着く数歩前で追いつくことができた。
「す……すみませんっ」
 『ロサフェティダアンブゥトン』という長ったらしい呼び名は呼び慣れていないし、何より余裕がなかった。体力的に。
「……何か?」
 首だけ振り返ったその顔は、無愛想を通り越して無表情。ただ、それをどうこう思う時間はなかった。
 慣れたくもなかったけど、慣れてしまったあの感覚。
 胸が締め付けられるように苦しくなったかと思うと、視界が揺れ、流れ落ちる。
 100メートルにも満たないダッシュで音を上げる心臓なんていくらなんでも、と思ったけれど。中等部の校舎を早足で抜け出し、見知らぬ高等部の校舎で薔薇の館を探して迷い歩いているうちに、ずいぶん体力を消費してしまったかもしれない。
 そんな後ろ向きの原因分析をしているうちに、私の身体はどんどん傾いていく。
「ちょ、ちょっと……大丈夫?」
 さすがに慌てて数歩駆け寄ってくれた江利子さまが受け止めてくれたおかげで、制服が土に汚れずにすんだ。
「だ……大丈夫です……」
 自分ですら大丈夫とは思えない低い声で呟く。もうに力が入らず、江利子さまの胸に身体ごと崩れ落ちつつある。
「気分が悪いの? ご家族を呼びましょうか?」
 江利子さまの身体は近づいているはずなのに、声はどんどん遠くなる。
 それでも最後に、こう告げる体力だけは残っていた。
「休んでいれば……平気です。誰も呼ばないで……ください」
 それだけを告げて、私の意識は途切れた。





 背中に当たる固い感触と日射しの眩しさに刺激され、寝不足の朝の不快感を十数倍したような覚醒が訪れた。これも慣れさせられた感覚のひとつだ。
 視界がモノクロから色味を増やしていくにつれ、状況が少しずつ飲み込めてきた。眼前に広がる緑の葉と、そこからの木漏れ日。どうやら私は屋外で寝かされているらしい。
 中等部保健室の常連である私は、貧血で倒れて運び込まれ、起きたときに自分がどこに居るか分からずパニックになる同級生たちを、近くで何度も見ている。
 私はそんな醜態は晒さない。肝が据わっているからではなく、これまた単に回数が多くて慣れたからだ。また令ちゃんに面倒かけちゃったなあとか、ちょっとの悔悟が訪れるだけで。
「……あ」
 そこまで考え、私は気づく。今日に限っては、私をここまで運んで来たのは令ちゃんじゃない。
「気がついた?」
 気づけば、大きなあくびで喉の奥を遠慮なく見せつけた女子生徒が、私の視界の横半分を占拠している。
 口を手で押さえるか噛み殺すかしたらどうでしょう、黄薔薇のつぼみ。今日のところはお世話になったから、口にはしませんが。
「はい」
 短いけれど意味のある言葉を口にして、私の意識は次第にはっきりしていく。
 私は江利子さまの膝枕で、ベンチに横たわっていたようだ。
 まだ少し苦しい胸を深呼吸でなだめ、私はゆっくり身体を起こした。
「まだ寝ていた方がいいんじゃない?」
「いえ。大丈夫です」
 背後からの声に応えて私は90度向き直り、脱がされ丁寧に揃えられた革靴に足を入れた。すっきりさせるため頭を3度振り、ついでに周りを見渡す。帰宅すべき生徒は帰宅し、部活に行くべき生徒は部活に行ってしまった、中途半端な時間のよう。中庭端のベンチの周りには、私たち二人以外に誰も居なかった。
 きっと私の顔色も声も本調子じゃなかったけれど、江利子さまは何も言わず、私の頭を置いていたスカートの裾を少し直しただけだった。
 昨日、令ちゃんの話を聞いてから。
 江利子さまに言いたいことや聞きたいことは沢山あった。けれど、いま言うべきことはこの一言だろう。
「ありがとうございました」
「別に何もしてないわ。ここまで運んだだけですもの」
 彼女は指を指してみせた先に、私たちが会った(そして即私が倒れた)場所があった。距離にして数十メートルくらい。
「私、何分くらい寝てました?」
「30分くらいかしら」
 腕時計を見るでもなく、感覚だけで大雑把に答える彼女。
「すみません。薔薇の館で用事があったみたいなのに」
「別に構わないわ。3人分働くしっかり者がいるから。むしろサボる口実ができて良かったかもね」
 その瞬間だけ、無表情な顔がわずかにほころんだ。口調からして同級生のことを言っているのだろうが、思い出すだけで表情が変わるくらい好きな友人なんだろう。
 ……言ってる内容は本当に酷いけど。
「そうそう」
 それまで質問に答えるばかりだった江利子さまが、始めて積極的に口を開いた。
「あなたに言われたとおり誰にも知らせてないけれど、一体どうして?」
 それはごくごくもっともな疑問だった。見ず知らずの生徒が学園内で倒れたら、普通は保健室につれていって終わりだろう。私が変なことを言ったせいで江利子さまは30分ほど引き止められたのだから、理由くらい聞く権利はある。
 そして私には、それに答える義務がある。
「……従姉に知られたくなかったから、です」
「従姉はこの高等部にいるのね?」
「はい。ご覧のとおり私は身体が弱くて、しょっちゅう面倒かけるんです。一人で居るときくらいは寄りかかりたくなかったんですけど……それで江利子さまに迷惑かけたら何にもならないですよね。本当にすみません」
 言葉を継ぎながら、だんだん声が小さくなる。確かに今日の令ちゃんは剣道部が終わってから薔薇の館に向かうはずで、間違いなく忙しいはず。でもそれはこちらの事情であって、江利子さまには関係がない。よく考えなくてもずいぶん身勝手な話だ。初対面の相手に変なことを口走った、30分前の自分を張り倒したくなった。
「だからそれは良いのよ。言ったでしょう、あなたは私がサボる口実だって。ほら見て」
 江利子さまの視線を辿ると、中庭を挟んで左手に薔薇の館が見えた。窓から数人の生徒たちの後頭部が見える。
「さっき、窓から私を見つけて、ひとり向こうから来たのよ。そのときに『この子の目が覚めるまでここに居るから』って言っちゃったのよね」
 だからもう少し寝ててくれた方が良かったのよ、と続ける江利子さま。
 私を気遣って冗談めかして言っているのか、それとも本気なのか。判断しにくい口調だった。
「そういえば……私の名前、知っているのね」
「黄薔薇のつぼみ――鳥居江利子さま、ですよね」
「そう。中等部でも知られているのね」
 中等部の制服と高等部の制服との一番の違い、胸元の細いリボンを見て、江利子さまはため息をつく。一際つまらなそうな表情を見るに、名前と顔を知られていることを喜んではいないようだ。
 謙虚というより、単にそういうことに興味が無いのだろう。
「ええ。有名人ですから」
 それだけが理由じゃない、とはもちろん言わない。

 そもそも私は、『令ちゃんの姉』の人となりを見に来たのだ。
 2学年上の人間相手に僭越かもしれないが、こと『令ちゃんの隣』に関しては私の方がはるかにベテランだ。だから私は、令ちゃんに姉ができたと聞いてすぐ、こうして高等部の敷地に不法侵入したわけだった。
 もっとも、いま冷静になって考えると、具体的に何をしたかったのかが自分でも分からない。仮に私にとってどれだけ気に食わない人であっても、令ちゃんが気に入ったのならそれを受け入れるしかないのだ。
 ただし、私の気持ちは別。

 病弱で過保護に育てられた私があまり受けたことのない、控えめな優しさを備えた人間であっても。
 高等部のスターであることを鼻にかけない人間であっても。
 私にとっては気に食わないライバルだ
 きっと、この先もずっと。



 私が1人で歩けることを確認して立ち去る江利子さまを見送るうちに、変なことに気づいた。
 彼女を呼び止め、私はその直後に倒れてしまった。それなのに彼女は、自分がなぜ呼び止められたのかを聞かなかったのだ。
 私の方は良い。江利子さまと話しをするうちに、彼女のことを知りたいという目的はある程度達成されたから。ただ、江利子さまのほうはどうなんだろう。なぜ自分が顔も知らない中等部の生徒に呼び止められたか、気にならなかったのだろうか。
 一番ありそうな可能性を考えれば、私が倒れてからのゴタゴタで忘れてしまった――ということになるんだろうか。
 それだけで割り切れないモヤモヤが残ったけど、江利子さまが薔薇の館の扉をくぐった今となっては確認のしようがない。私は慣れ親しんだ中等部への帰路についた。





「妹としての1日目はどうだった?」
 私がそう口にしたことに、部屋に入ってきた令ちゃんは驚きを隠せなかった。
 昨日『姉ができた』と言ってからずっと不機嫌を隠さなかった私が、自分からその話題を振ってきたからだろう。
「ああ……うん。部活が終わってから、薔薇の館に行ってきたよ。1日目だから顔見せくらいだけどね。仕事はこれから」
「違う違う。生徒会の仕事がどうこうじゃなくて、『お姉さま』はどうだったのかって」
「……え?」
 さらに驚く令ちゃん。
 どうやら、今日は私の不機嫌の種に出来るだけ触れないでおこうと思っていたらしい。私の態度の変化に戸惑いながらも、律儀に答えてくれる。
「そうだね。こっちも1日目だからよくは分からないけど、ちょっと変わった人かな。剣道部の同級生を見てると、姉妹になりたての時っていつも一緒にいたり学校のことを教えてくれたりするらしいけど」
「そうじゃなかったんだ」
「うん。生徒会のことは紅薔薇のつぼみがほとんど教えてくれたし」
「江利子さまは?」
「座って見てるだけかな」
 なるほど。『3人分働くしっかり者』というのは、紅薔薇のつぼみのことだったのか。
「楽しそうで良かったね」
「そう?」
「うん」
 それくらい、令ちゃんの顔を見ていれば分かる。
 昨日の私だったら、できたての妹に何も教えず座って見てるだけのお姉さまなんて、絶対に許さなかっただろう。
 でも、今日は平気。
 良くも悪くも『そういう人だ』と知ったし、それを令ちゃんが受け入れているのなら、私が口を出すことは何もない。





 その日の夜のこと。

 翌日の授業の準備をしようと通学鞄を開け英和辞書や教科書を取り出すと、見覚えのない一枚の紙が出てきた。
 ノートを乱雑に破ったその切れ端には、丁寧な字でこう書かれていた。

    「令は預かっておきます。1年くらい待ちなさい。
     あなたが本当に令の妹になるかどうかは知らないけれど」

 江利子さまとの別れ際に抱いた違和感が、ようやく解消した。
 令ちゃんは江利子さまに、妹にする予定の従妹が中等部にいる話していると言っていた。
 その『従妹』と、自分に用のある病弱な中学生が結びついたんだろう。

 それに気づいたことなどおくびにも出さず、こんなやり方でからかうとは。
 あまつさえ、『本当に妹になるかどうか分からない』だと。
 私はノートの切れ端を握りしめ、ゴミ箱に放り投げて思った。

 これは正真正銘の、気に食わないライバルだ。
















あとがき

 黄薔薇ファミリー(ほぼ)初書き。

 後年、『ロサフェティダアンブゥトンプティスール』という更に長ったらしい名前で自分が呼ばれることに気づかない由乃さんでありました。

 リリアンの小学校って「小等部」なのか「小学部」なのか。原作に記述ありましたっけ?




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