順番違いの二人



「明日から、薔薇の館に来てみない?」
 私の言葉に、笙子ちゃんは戸惑ったようだった。小さな唇を二度三度と開いては閉じ、そこに載せるべき言葉を探すように宙を見上げる。
 やがて、小さいけれどしっかりした声でこう言った。
「はい。お邪魔させていただきます」
 笙子ちゃんの声はともかく、私の声はそれなりに大きかったので、その場にいた参加者は全員がこちらを向いて成り行きを見守っていた。
 下級生に囲まれていた祐巳さんが何か言いたげに私を見つめていたけれど、言葉になったのは小さな呟きだけだった。
「由乃さん……」
 その声に含まれた意味が私に理解できたのは、しばらく後になってからだった。


 挨拶代わりの自己紹介が終わると、私は真っ先に笙子ちゃんの席に向かった。茶話会が始まる前から彼女のことが最初から気になっていたのだから当然のことだ。他の人とどんな風に話すのかを観察して……なんて回りくどいやり方、私には似合わない。
「隣、座っても良いかな」
「あ……はい」
 参加者それぞれがお目当ての上級生または下級生の側へ歩み寄るなか、部屋の中を見回したりしていた彼女は、突然に声を掛けられて少し驚いたようだった。
「ありがと」
 余所の席へ移って無人となった左隣を勝手に占拠すると、椅子を引っ張り出して彼女の方へ向ける。整った顔立ちは、間近に見てもまるで破綻が見えない。
「はじめまして。内藤笙子ちゃん」
「覚えててくださったんですね。ありがとうございます」
「……念のため聞いておくけど、私のことは覚えてるわよね?」
「もちろんです。島津由乃さま」
 お互いフルネームで呼び合って、どちらからともなく照れ笑いを浮かべる。
「良かった。応募書類に『祐巳さまでも由乃さまでもどちらでも良い』なんて書いてあるから、個体認識されてないんじゃないかと思ったわ」
「あ……失礼な書き方でしたよね、やっぱり」
「違う違う、あれは全然気にしてない。というか、むしろすがすがしかったと言うか」
「え?」
「相手のことを知らないのに『姉妹になりたい』ってのも変でしょ。『薔薇の館に入りたいから二人のどちらかの妹に』って、正直で良いと思う」
 最初に彼女の応募用紙を読んだときは、確かに少しカチンと来た。祐巳さんと私は仲の良い友達ではあるけれど、誰がどう見たって性格はかけ離れている。その二人のどちらでも良いなんて、無節操にもほどがあると思った。でも、『由乃さまの妹になりたいです』なんて書かれた応募用紙を何枚か読んでいくうち、気持ちは変わっていった。
 ロクに話したこともない私と姉妹になりたいなんて言える子たちより、笙子ちゃんの方がずっとずっと誠実なんじゃないかと思うようになったのだ。
 だから私は言外の意味など交えず、素直に言っただけ。
 けれど図らずも、茶話会がはじまってわずか十数分で私は自ら退路を断ってしまったようだった。聞き耳を立てていたらしき『由乃さまの妹になりたいです』連合の数人が、涙目で私たち二人を睨んでいたから。
 これは是が非でも笙子ちゃんを引きずり込むしかない。
 私はより覚悟を決めて、冒頭の台詞を告げたのだった。


 リリアンでいう姉と妹には、ちょっと大袈裟に言うと個人的な意味と公的な意味とがある。普通の部活であっても、部員の中から部長に選ばれた妹は『次期部長』という目で見られる。
 まして私と祐巳さんは、二人とも山百合会の仕事をしている同士。勿論その妹が山百合会の幹部にならなきゃいけないという決まりは無いけど、少なくとも他の生徒たちはそういう目で見るのは事実だ。そして、いま私たちの妹になりたいという子の多くは、薔薇の館での仕事をすることの覚悟と希望があるだろう。
 だから私は、妹オーディション改め茶話会が始まる前に祐巳さんと話し合っていた。もちろんその場でお互い姉妹になりたいと思える相手と出会えたならそれで良いけれど、そうでなければ『お試し期間』を置こうと。
 それは、相手の性格を理解し合うための時間であり、薔薇の館での仕事に向いているかどうかを考えるための時間でもあった。





「薔薇の館の一日目はどうだった?」
「緊張しました」
「主に紅薔薇さまの厳しい視線が?」
「……私は何も言ってませんからね」
「否定はしないんだ」
「あ」
 恐らくは話題の主たる祥子さまのお気遣いで、私と笙子ちゃんとが二人残された薔薇の館の後片付け。笙子ちゃんがスポンジでティーカップを洗い、私が水で洗剤の泡を流していく。楽な仕事を上級生権限で取り上げたと思わないでほしい。『スポンジで洗う』→『水洗い』の流れが一年生から二年生へのリレーになるのは薔薇の館の伝統である。ついでに言うと、三年生が協力するときはアンカーとして『ふきんでのカラぶき』が加わる。
「い、言わないでくださいね、紅薔薇さまには」
 視線ですがりつくような表情で見つめられては仕方がない。
「大丈夫よ。私、そこそこ口が固いから」
「そこそこじゃダメですっ!」
 もう少しだけ困らせてあげるしか。


 困り顔の笙子ちゃんをなだめながら思う。やっぱり近くで接してみないと、人は分からないものだ。普通、王道ド真ん中の美少女さんからは一種冷たい印象を受けるもの。でも彼女は、そんなものとは無縁だ。なかなか表情豊かでからかい甲斐がある――じゃなくて、そばにいて飽きない。それでいて、不安な顔も拗ねた顔もちゃんと絵になるのがお見事。同じように表情豊かでも、祐巳さんの百面相((C)佐藤聖さま)が時にリリアンの生徒に相応しくない表情も含むのとは対照的だ。祐巳さんの方もそれはそれで捨てがたい魅力があるんだけど。
「でも、皆さんの方も緊張……と言うと変ですけど、私に気を遣ってくださってましたよね」
「そうね」
 一瞬だけ答えを迷ったけれど、私は否定しなかった。
 乃梨子ちゃんが志摩子さんの妹になって数ヶ月。薔薇の館が新人(候補)を迎えるのは久しぶりだ。入ってくる笙子ちゃんも、迎える私たちも、どうしても気を遣ってしまうのは仕方のないことだろう。
「明日は別の方が来られるんですよね」
「そうね。祐巳さんの妹候補。笙子ちゃんの出番はしばらく無し。……安心した?」
「……あ、そんなつもりじゃないです」
 慌てる笙子ちゃんからわざと視線を逸らしてカップ洗いに専念したように見せながら、私はのんきなことを考えていた。
 慣れない『気さくな先輩役』もけっこう面白いものだ、なんて。





 自宅の部屋に戻ってしばらくすると、扉が小さく叩かれた。足音で来訪が分かっていた私は、椅子を後ろに下げてくるりと回すとともに返事をする。
「お疲れさま、由乃」
「ただいま」
 自分の家にやって来た従姉に対する日本語としては大いに間違っているが、私と令ちゃんの関係ではこれが正しい。隣接した島津家と支倉家との壁など、お互いほとんど意識せず育ってきたのだから。
「でも、『お疲れさま』ってどういう意味?」
 壁際から薄いクッションを引き寄せて部屋のまんなかに座ると、私を見上げて悪戯っぽく微笑む。
「いちばん大変だったのは一人でやって来た笙子ちゃんだろうけど、その次に由乃が疲れたんじゃないかなと思って」
「私は別に何も……」
「気にしてない?」
「……ごめんなさい。とっても緊張しました」
 薔薇の館で笙子ちゃんと二人きりになった瞬間の気持ちを思い出し、私は深く息を吐き出す。
「素直でよろしい」
 頭を下げた私を見て満足げに笑う。令ちゃんが私の妹候補をどう思っているのか、というのも私の緊張の一因だったんだけど、どうやら杞憂だったらしい。その証拠に、こんなことを言い出した。
「モデルしてたんだってね、笙子ちゃん。どうりで可愛いはずだ」
「なんで令ちゃんが彼女のこと知ってるの?」
「剣道部の後輩が笙子ちゃんと中等部から同じクラスだったらしくて、ちょっと聞いてみた」
「まったく……」
「え?」
 令ちゃんが熱心に情報を聞き出したってことは、学園であっという間に広まるだろう。茶話会で見つかった妹候補は、祐巳さんは三人で私が笙子ちゃん一人。祐巳さんの方は複数いるから言葉どおり『妹候補』扱いされるけど、私は『本命を見つけた』扱いになっているんだ。今日だって気の早いクラスメイトから「いつ妹にするの」なんて聞かれたというのに、令ちゃんがそれに拍車をかけてどうするのか。私は小さいため息をついた。
 それでもいつもの「令ちゃんのばか」を言わなかったのは、令ちゃんが持ってきた情報に私も興味があったからだ。
「モデル?」
「そう。子供服のモデルとかやってたらしいよ。けっこう前にやめちゃったらしいけどね」
「信じられない……」
「どうして? 笙子ちゃん、あんなに可愛いのに」
「いや、そうじゃなくて……」
 私は、机の横に置いた通学鞄から、一枚の変形封筒を取り出す。真美さんからもらった茶話会参加者の記念写真だ。撮影したのはあの蔦子さんだから、カメラマンの腕には信用が置ける。
 置けるはずなんだけど。
 その写真のある一点を指さしながら、令ちゃんの眼前に差し出す。
 それを見つめた令ちゃんは、数分前の私と同じように首をひねった。





「二年松組出席番号九番島津由乃。二年になってから剣道部に入部。趣味はスポーツ観戦。好きな作家は池波正太郎」
「な、何ですか、とつぜん……?」
 ベンチに腰掛けた知人が読経のごとく自己紹介をはじめたら、そりゃあ驚くだろう。けれど私にとっては、それなりに意味のある儀式だ。


 学園全体がざわめく昼休憩のはじまりの時間。私は教室からミルクホールへ向かう人の流れに逆らって笙子ちゃんのクラスへ行き、まっすぐ彼女の席へ向かうと、彼女を連れて中庭へと連れ出した。笙子ちゃんが弁当持参だったから『一緒にお昼を』という建前が成立したけど、彼女が食堂組だったらどうするつもりだったのかなんて、ちっとも考えてはいなかった。
「私たち、お互いのことをなんにも知らないなって」
「だから自己紹介を……?」
「そう」
 そう。私は笙子ちゃんが昼食に弁当を食べるのかパンを食べるのか、それすら今まで知らなかった。
 最初から私は順番を間違えていた。
 薔薇の館で他の人たちと上手くやっていけるか、仕事がちゃんと出来るか。そんなことはどうでも良かった。お試し期間なんて作るくらいなら、一言でも二言でも笙子ちゃんと言葉を交わすべきだった。姉妹になるのは私と笙子ちゃんなんだから、お互いが相手のことを知って、お互いがどうすべきかを決めればいい。それだけの話。

 唐突な自己紹介は、私なりの合図。
 次はあなたのことも教えてほしい、と。

「笙子ちゃん、子供モデルしてたんだってね」
 人によって価値観は違うだろう。けれど大多数の女の子にとって、『モデル』というのは多少なりとも誇れる経歴ではないだろうか。
「……ずいぶん昔の話ですよ」
 少なくとも、今の笙子ちゃんのように伏し目がちになる過去ではないはず。
 新聞部の真美さんから受け取った、茶話会での集合写真。大勢の参加者が居たから各自のいちばん良い表情というわけにいかないのは分かるけど、それにしても笙子ちゃんの映り具合は悪かった。視線は泳ぐ口元は歪む。正直いって、彼女の容姿でこれだけひどい写真になる方が難しいと思う。
 子供モデルをしていたということは、ずっとプロとして写真を撮られていたということ。その頃からあの集合写真に至るまでの間、彼女に何があったのか。
「今でなくても構わない。笙子ちゃんが抱えた大事なことを話してくれるのは。私たちは知り合ったばかりだし」
 笙子ちゃんは俯き黙ったまま、私の言葉を聞いている。
「でも、それをいつか私に話してくれる可能性がないのなら、私たちが姉妹になる意味はないと思う」
 口に出さなくとも、その態度だけで笙子ちゃんの深刻な悩みがそこにあることが分かった。写真写りが悪いというのはごくごく単純なことだけど、その裏にあるものが単純だとは限らない。
「『山百合会の皆さん』が憧れだったって言ってたわよね」
「はい……」
「じゃあ、島津由乃個人についてはどう思ったの?」

 私は笙子ちゃんのことを知らなかった。自分が思っている以上に、なんにも知らなかった。
 だからこの言葉にも『落ち着いて二人のことを考えてみよう』程度の意味しかなかった。
 後になって考えてみれば、これが笙子ちゃんの背中を押す最後の一言だったに違いないけれど、私にその自覚はなかった。

 ひょうひょうと楽しげに学園生活を送っている彼女が、みっともなく息を切らせて私たち二人の方へ駆け寄ってくる、その時まで。
 私が、本当に何から何まで順番を間違えていたことを知る、その時まで。









「由乃はえらかったよ」
 蔦子ちゃんの言葉を聞いてすぐ、笙子ちゃんの気持ちを理解できたんだから。
 そう言って笑う、私のベッドに腰掛けた令ちゃん。私は部屋の床に座り込み、決してその顔を見ない。
 ようやく大人しくし始めた私の涙腺を刺激するような、とびきり優しい顔をしているに決まっているんだから。
「蔦子さんの言葉を聞いて、じゃない」
 きょとんとする令ちゃんに、こう告げる。
「蔦子さんがやってきたときの、笙子ちゃんの顔を見て、よ」
 そこにどれだけの違いがあるのかなんて知らない。知らないけど、それがこのみっともない顛末における、私のささやかな意地だった。
 泣き腫らした顔を見せたくなくて床ばかり睨みつける私の頭に、そっと手が置かれる。竹刀を握って固くなったと本人は言うけど、私にとっては充分大きくて暖かい掌。


 あのとき。
 蔦子さんを見つめる笙子ちゃんの表情で二人の関係を察した私は、彼女を乱暴に蔦子さんへと押しつけた。
 半ば力尽くで蔦子さんを自分が座っていた場所へ押し込み、『用事を思い出しちゃった』なんて動揺丸出しの下手な台詞まで添えて、私は一人逃げ出した。彼女たちの顔を最後まで直視できないまま。


 だから、私が二人の事情を知ったのは、その後で家にやってきた蔦子さんの言葉による。
 笙子ちゃんが高等部に入学するまえ、バレンタインのイベントで知り合ったこと。
 入学後、言葉を交わす機会は無かったこと。
 あの茶話会――というか、はっきり言うと私の行動――ではじめて、蔦子さんが自分の気持ちを告げる気になったこと。
 冷静な蔦子さんらしく、投げかけた沢山の言葉の中には、今の私にとっての禁句が一つたりとも含まれていなかった。

 『ごめんなさい』。

 その言葉がいちばん私を傷つけるということを、彼女はよく理解していた。


「蔦子さん、笙子ちゃんを妹にしたって」
「そう」
「ずっと前から、ロザリオの用意はしてあったんだって。笑っちゃうわ。私たちと茶話会の打ち合わせをしているときですら、鞄の中にそれがあったなんて」
「そう」
 蔦子さんは本当に良い友達だ。
 笙子ちゃんは、別に私の妹になっていたわけじゃない。単なるお試し期間中の身だ。だから蔦子さんの妹になることに何の支障もない。蔦子さんが罪悪感を覚える必要もなければ、私が怒る権利もない。
 それでも彼女は真っ先に私の家まで来て、二人のことを説明してくれた。謝るでもなく開き直るでもなく、ただ淡々と。
 だから私も、それをただ聞いていた。

 蔦子さんの真意は充分に分かったから、大丈夫。
 明日、笙子ちゃんに会っても、仲の良い上級生として振る舞える。
 明日、蔦子さんに会っても、仲の良い友達として振る舞える。

 でも、今夜だけは。
「令ちゃん、今日はうちに泊まってってよね。あの二人に文句ぶちまけなきゃ眠れないわ
「……わかった」
「蔦子さんだって、そんなに気になる下級生が居るなら首に縄でも付けてなさいっての。おかげでこっちはとんだピエロだわ。笙子ちゃんだって、四月に写真部にでも入ってたら良かったのに」
 受け止めてくれる令ちゃんの前で、ワガママな由乃として振る舞いたかった。






















あとがき

 タイトルは槇原敬之『満月の夜』から。「順番違いの恋を……」で始まる名曲。
 「他に好きなヤツ出来たからお前とは別れるわ」という非道な歌詞を、あの美声で歌い上げております。

 ちなみに当初タイトル案は「空気を読まない島津由乃」。
 こっちの方が本編の意味を伝えてる。




目次へ




inserted by FC2 system