密約



「葉子さん!」
 君枝が廊下をバタバタと走るのは、何ヶ月ぶりのことだろう。勢いよく開いたドアに向き直りながら、葉子はそんなことを考えていた。
 以前は珍しいことではなかった。いつも彼女を揺り動かし走らせた張本人が卒業してしまうまでは。
 もっとも。前会長に、自身の一挙手一投足が君枝を西へ東へ走らせているなんて自覚はなかったろうが。
「ああ、そろそろ来ると思ってた」
「そろそろ、じゃないわ。噂に聞いたけど、選挙の前にあんなこと……」
 初めは出来損ないのロボットだった立ち居振る舞いも、卒業生が代わる代わる務める家庭教師のおかげで、ずいぶんお嬢様学校の生徒会長らしくなってきた。けれど今は、折角手に入れたそれを何処かに忘れてきたかのように、君枝は荒い息のまままくし立てる。
 相手が急速に身に着けてきた迫力に負けぬよう、葉子も下腹に力を入れた。
「私に票を入れると言ってくれる奇特な人たちも居ることだし、先に伝えておいた方がいいわ」


 エルダー選挙が目前に迫った学院は、ただでさえどこか落ち着かない。
 そのうえ。今回の選挙が始まった頃にある噂が駆け回ったことから、そのざわついた空気は更に増幅された。
 中心は、有力候補の一人である生徒会副会長、門倉葉子。彼女は、自分に票を投じると告げてきた生徒全員に「私に来た票は君枝さんに譲渡する」と答えていたからだ。
 一票でも得ることが出来ればそれだけで誇りにつながる。聖應女学院において、エルダー選挙はそれだけの重みを持つ。どの生徒も規定の得票率に達しない場合は候補者ごとに自分が得た票を譲渡する仕組みは存在するが、それはあくまで選挙後のこと。選挙前に自分の票を譲渡すると宣言するのは、ほとんど例がない。
 それは『自分に票を投じるな』と宣言するに等しいからだ。


「本当に票が入るかどうかも分からないのに、図々しいでしょ」
 そう続けた葉子は、いつもの皮肉めいた表情を浮かべる。
「奇特だなんて……みんながどう噂してるか知ってる? あなた、エルダーの有力候補なのよ」
「最有力候補が何言ってんだか」
 『サイ』を強調して意地の悪い笑みを見せる葉子に、君枝が頬を染め俯く。
「生徒会長と一緒よ。私はそういう光の当たる場所は似合わないの」
「でも……葉子さんの方が多くの票を集めたら、やっぱりその時は……っ」
 なお言い募る君枝の口に、立ち上がった葉子が人差し指を押し当てる。
「そんな可能性は万に一つもないと思うけどね。でもま、せっかく私をそれくらい買ってくれてるのなら、ひとつ条件を出そうか」
「…………え?」
 自分のリップクリームで艶やかに光る人差し指から離れ、君枝が聞き返す。
「アメリカの大統領」
「は?」
 今の会話から一気に飛躍した単語が出てきて、戸惑う友人に笑いかける葉子。
「あの選挙ね。候補者選考に残れなかった人が、ライバルへの支持を表明する見返りに、副大統領候補の座を貰ったりするでしょう? あれと同じ」
「な、何を言っているの?」
 『選挙』というキーワードでようやく葉子の話を理解した君枝だが、その意図は相変わらず分からない。
 生徒会役員選挙なら、君枝にも話は分かる。生徒会には複数の役員が居るから、それらを『副大統領』と評するのは的を射ている。
 しかし、学園の象徴たるエルダーシスターはただひとり。補佐する役目の人間など居ないのだ。

 君枝の困惑をよそに、葉子はわずかに表情を硬くする。
 いつもの君枝なら気づいただろう変化が表わすのは、彼女の不安。
「生徒会長としての菅原君枝を支えるのは、副会長である私の仕事。でも、エルダーとしての菅原君枝を支えるのは、私と決まっている訳じゃないわ」
「そんな……。私、葉子さんがいないと……」
 再び唇を奪った葉子の指が、君枝の言葉を押しとどめる。

 自分の予想よりはるかに早く独り立ちしていく君枝を見るたび、葉子の中で膨らむ焦燥感。
 いつか君枝が自分を必要としなくなるのだと気づいたのは、エルダーになった君枝を想像したときだった。だから葉子にとって、これはどうしても投票の前に行っておかなければならない儀式。
 みっともなさに泣きそうでも愚かさに笑いそうでも、彼女は一息に言い切った。

「だからお願い。君枝がエルダーになっても、あなたの隣は私のために空けておいて」





 君枝に遅れること三分。
 まるで手につかない仕事を珍しく翌日送りにして、葉子が生徒会室を出る。銀色の小さな鍵を差し込む背中を、一人の女生徒が軽く叩く。
「ひ……な、なんだ、斎か」
「悪かったわね、君枝さんじゃなくて」
「何言ってるのよ」
「……あなたの隣は私のために空けておいて」
「な……!」
 数分前に自分の鼓膜を内側から震わせた言葉を聞き、葉子は耳まで朱に染まる。
「立ち聞きしたくてしたわけではないのよ。生徒会室に用事があってドアの所まで来たら、なんだかお取り込み中みたいだったから遠慮したの」
 感謝してほしいと言わんばかりに胸を張る会計担当に、言い返す気力もない葉子。
「今さら何照れてるの。毎日ファンの子たちに『会長が好きだー』って公開告白してるじゃない」
 斎の用事というのは、君枝と同じように、葉子の噂に関することだったのだろう。
 心配してくれた友人に対して、葉子は思わず本音を漏らした。
「あんなの、別に恥ずかしいことじゃないわ」
「そうかしら」

「本人を前にして言うことに比べれば、ずっとね」











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