after, After School



「She has studied ……English for one hours……えっと……彼女は英語を勉強……んー……二時間でやり終えた? いいなあこの子。私たちは一時間やっても全然終わんないってのに」
「……違います」
「え?」
 背後から聞こえてきた独り言に、前を向いたまま応える。小さなつぶやきは重苦しい髪のカーテン越しにも届いたらしく、アスナさんが間の抜けた声を出す。
「なんで? 夕映ちゃん羨ましくない?」
「いえ、問題はそこではなく……。この現在完了形は『完了』ではなく『継続』の意味でしょう。『彼女は二時間ずっと英語を勉強している』になると思うですが」
「あ、私たちと同じかあ。なんだ、別に羨ましくないや」
「ですから問題はそこでは無いです」
 振り返ると、自分の椅子の『前足』を浮かせて大きく反り返り、ロッキングチェアのように身体を揺らすアスナさんが居た。
 アスナさんは、すっかり集中力が切れてしまったようだ。それがこちらにも伝染してきた、と言っては彼女も怒るかもしれないが。シャープペンシルを置いて肩の力を抜き、トントンと軽く首筋を叩くと、得も言われぬ快感が湧き上がった。
「夕映ちゃん、おばさんくさい……」
「放っておいてください」


 高畑先生が抜き打ちで行った英語の小テスト、と言えば次に起こることは予想できるはず。
 いつもの五人が集まっての、補習勉強。
 もっとも、低レベルで背比べを繰り広げるドングリ五人の中で、最後まで合格点を取れず残るのが誰になるのかは、そのときどきの運が左右する。今日は他の三人が早めに終えてしまい、アスナさんと私の二人が残った。

 私たちの学園は大正期のロマネスク様式による校舎を後生大事に保存しているから、歴史的な希少性はあるが、現代建築のような採光は望めない。教室は早くも薄い闇を飼い始めた。
 時計を見ると、針は四時十分を指しているが、その文字盤よりも足下ににじり寄ってきた夕暮れが、より私を急かした。五時には図書館島でハルナやのどか、木乃香と合流する約束になっている。みんな事情は分かっているだろうけれど、あまり迷惑を掛けるわけにもいかない。
 再びペンを握った私と違い、アスナさんの椅子が奏でる旋律は休符を知らない。完全に集中力が切れ、無為に私の後ろ姿を眺めていたらしい。そのことは、後に続く言葉で知れた。
「ホント長いわねー」
「…………何のことですか?」
「夕映ちゃんの三つ編み」
「ええ、確かにそうですね」
「毎朝結ったりするの、大変じゃない?」
 これは他の人にもときどき聞かれることだから、返答も決まっている。
「この髪型も長いですからね。慣れればすぐですよ。アスナさんのようなストレートの方が、手入れは大変なのではないですか?」
 きっかり九十度振り向き、廊下に続くドアに目を遣りながら話す。視界の隅でアスナさんが首をひねった。
「えー? 私、別に何にもしてないけどなあ」
「本当に何もせずにそれを維持しているのなら、ハルナが嫉妬しそうですね」
 同じくロングヘアーの友人を引き合いに出す。彼女が鬼の形相で鏡に向かう姿を思い出し、かすかに頬が緩んだ。
「夕映ちゃん、ずっとその髪型よね」
「入学当時はもっと短かったですし編み込んでもいませんでしたが……確かに一年以上はこうですね」
「変えてみたいとか、思わないの?」
 これも良く人に言われることだ。生来の髪の多さが手伝って重苦しいから、自分には似合っていないという自覚もあるけれど。
「……祖父が褒めてくれたから、です」
「……へ?」
「学者としては斬新な学説を生み出しましたが、センスは年齢どおり大正時代の人でしたから。昔の女学生のような髪型が気に入っていたんでしょう」
 私の皮肉めいた口調にもかかわらず、アスナさんは殊勝に沈んだ顔をする。
「そう……。悪いこと聞いちゃったわね」
「……とまあ、こういうありきたりな物語でもでっち上げれば満足ですか?」
「へ?」
「冗談に決まっています」
「……冗談……って、どこからどこまで?」
「全部です。そもそも亡くなった祖父が気に入っていたのなら、長さは当時のままにしておくでしょうし、髪型だって入学の頃のままにしておくはずでしょう」
 あっけにとられる彼女。
 そして、三秒後。
「夕映ちゃんの冗談は分かりにくいうえに突っ込みづらいのっ!」

 むくれるアスナさんを見て、本当のこと――若かりし頃の祖母を真似たのがきっかけだったということは、云わないでおくことにした。







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